ワールドメイトブログ ワールドメイト 和魂
★開設12年突破!! WMファンブログ[ワールドメイト和魂(にぎみたま)]に訪問ありがとう★
▼━【※ご注意:記事の年月日について】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━▼
 FC2Blogは仕様により、1か月更新しないとトップに見苦しい広告が表示されてしまう為、過去記事の追記や誤字脱字修正した際にその時の年月日に合わせて再度更新して、広告が表示されないようなるべく気を効かせております。しかしその結果、記事を1番初めにアップした年月日は、ほとんどの記事で正確ではなくなってしまっていることに御容赦ください。

また、ブログ全体のリニューアルをしたので記事内の改行などが崩れており(文字サイズも大きくした)、記事によっては非常に読みにくくなっていて申し訳ありません。人気記事ランキングの上位から地道に修正していますが、けっこう大変なのでなかなか進まずで~<(;▼Щ▼)おぉう

『【完全版】母親の死と…そして右足親指骨折(アウチッ!!)』

NEW2019/12/11【改行修正】
7月22日の最後の三峯神社奥宮登拝』から、奇しくも1ヶ月と7日。

【Sixx: A.M. - Oh My God (This is Gonna Hurt 2011)】


 ~その翌月の9月23日の誕生日で74歳になるはずだったのに、朝、自宅のベッドの上で冷たくなっていた母親。2016年(平成28年)8月29日死去。悶え苦しんだ様子はいっさいなく、とても安らかに微笑んでも見える死に顔だった。
(´∀` )ブログランキングに参加中★イイ記事だったとか面白かったとか役に立ったとか思ってくださったらポチッとお願いしまぁす!


 ~私はこのブログを10年もやってきたが、両親のことをここまで詳しく載せたのは初めてだと思う。深い悲しみにくれているのを察しながら読んで頂けたら嬉しいし、この記事が誰かの役に立てたり参考になれば、私も少し救われる。

 母親の数年間に渡るいろんな病院への通院や入院はすべて私が連れてっていたし、そういう母親との2人だけの思い出がたくさんあったので、母親を亡くしたダメージはかなり大きくて今だに毎日のように涙が出る。



 ~ただ、寝たまま安らかに逝けたようなのでそれだけは救いだと思いたい。亡くなってから驚いたのが、母親の命日である"29日"はこれ。 下↓の記事を読んでいた方ならご存知のとおり、雨の中の三峯神社奥宮へ登る前に本殿で引いたお御籤の番号が29番。

 ┗『7年連続7月22日の三峯神社奥宮登拝達成!!



 7年間の三峯神社奥宮登拝で母の病気の完治も奥宮で祈願して来たが、まさか、今年で奥宮登拝は最後だと決意して登った日から1ヶ月と1週間後の8月29日に母親が亡くなるとは思ってもいなかった。

登拝前の本殿での御神籤番号は【29】なんと母親が死去した日になった!

 (7月22日+1ヶ月(1)+1週間(7)=8月29日母親死去。ここでも1と7が付く。私がワールドメイトに導かれて初救霊後に会員になったのは平成7年11月17日。私の誕生西暦は1971年。そして2017年2月9日現在の会員歴は"22"年。ちなみに【22(不死)】とは富士(不死)神界(神仙界)を意味する)  


 ~7年間同じ日(7月22日)に登り続けて初めて雨の中の奥宮登拝だったのだが、雨とは涙とも意味できる。たぶん三峯大神様は、あの時点で母親が亡くなるのを知っていたのだろうと、今では思う。また母親の命日の29日というのは、なんと、母のお父さんと同じ命日だった!

 しかも、母親の母親である祖母の命日はなんと9日。私から見た母方の祖父(29日命日)、母方の祖母(9日命日)、そして母(29日命日)。こんな恐るべき数字の一致があるだろうか?みんな"9"が付くうえに、母親と母親の父の命日(祖父)が同じとは驚愕だ。亡くなる日の数字まで合わせるのは、さすがに人間の力では不可能である。



 火葬の後、母親のお兄さん2人を東京の稲城市まで車で送って行ったのだが、『ウチの●●家は数字の"9"に縁があるんだよねぇ』~と言っていたのに驚く。そしてまた、亡くなった母親の綺麗で美人だった死に顔が、仏壇の遺影のお祖父ちゃん(母親の父)にソックリだったのもさらに驚いた。

  その母親のお兄さんからそのとき聞いたのだが、母親が亡くなった朝、ベランダの【アサガオ】が綺麗にいくつも咲いたのだという。そのとき、『●●ちゃん(母親)に見せてあげたいなぁ~』と思ってくれたそうだが、そのすぐあと、私からの【母親の死去の電話】でとても驚いたそうだ。

 『きっと、たくさんの花に囲まれて天国に逝ったんだなぁ』~と言ったのだが、そう話してくれた叔父さんの目からは、涙が流れて頬を伝って落ちていた。



 ~何十年かぶりにお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの仏壇に手を合わせ、『お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、ずっと来なくてゴメンね…お母さんのこと~おねがいします…』~と心の中で言っておいた。

 同じ日にち(29日)に亡くなった母親とお祖父ちゃん。お祖母ちゃんは9日死去。きっと、お祖父ちゃんが母親を安らかに連れて行ってくれたのだと私は思っているが、亡くなった母親が少しでも私のことを、『晩年はとても孝行息子だったよ~』と報告していてくれたら嬉しい。

 ┗『ひとりで死ぬということと「お迎え現象」

 ┠『 「愛してる」と言って亡くなった小林麻央さんの最期を作り話だという医師たち | 文春オンライン

 ┗『愛する人を亡くした悲しみとの向き合い方について高齢者が秀逸なアドバイス : カラパイア



 ~私が生まれた、この東京都稲城市。

 何十年かぶりに訪れた稲城の団地。~まだ小さい頃、夏休みになると、お祖母ちゃん(母の母)がいたこの団地に毎年連れて来てもらっていたのだが近くには大きな多摩川が流れており、夕陽がとても綺麗なところ。



 ~あの頃は、弟と2人でセミ採りをして夕方までよく遊んだものだ。近くの神社やお寺や林などを回り、それはそれは猛烈な速さと上手さで捕まえていった!弟は覚えていないと思うが、小さな緑の虫カゴに捕まえたセミを数十匹も詰め込み、すぐ近くの駅に併設してあったデパートのレジのオバちゃんに見せては自慢していたのだ。

 オバちゃんはとても驚くと同時に、『あら凄いわね~』と褒めてくれたのを私は覚えているが、2つの小さな虫カゴにそれぞれ20匹以上セミを詰め込んだらミンミンうるさいうえグロさ万倍!!~いま思うとたぶん、オバちゃんは正直~気持ち悪くて引いていただろうと思う。(苦笑)

 そんな団地を久しぶりに訪れたら、近所の様子はすっかり様変わりし、下を走っていたはずの電車が大きな高架の上を走っていて駅まで大きく変わっていた(超絶ビックリの近代化!!笑)。思えば私の霊障の始まりもこの団地だ。~ここでは割愛するが、たぶん長男だからだろう。




 ~父親は私以上に目が悪く、視神経をやられているうえに緑内障を併発し、今では障害者等級1級という、ほとんど見えないに等しい障害を抱えている。そのため車も運転できないばかりか母親さえ病院に連れて行くことが困難なため、母親の病院通いや入退院する時の手続きや世話はすべて私が一人でやって来た。

 年々、年老いていく母親の手を繋ぎながら、6年くらいの通院だっただろうか。持病の肺の病気の通院、それの体調悪化による入院、持病の肺のコイル手術の入院、母親も私と同じ右目の網膜剥離と白内障の手術を大学病院でやって通院もした。



 ~また、歯や入れ歯の治療のために歯医者の通院にも連れて行ってあげたり、首が寝違えたと言えば地元の病院の整形外科に連れて行ってあげたり、白癬という爪の水虫にかかっては地元の病院の皮膚科に通院したこともあったし、母親の洋服や下着、パジャマや寝具なども、よく買いに行ってあげたことも懐かしい。

 晩年の訪問介護と訪問診療の手続きやケアマネージャーとの相談まで~もちろん私の役目。父親の病院通いまで、母と平行して私が連れて行ってあげたし、長男としての責任感、使命というものが行動に現れていたと思う。それが積み重なって信用というものを築き、人間としての評価が確立していくことも既知のこと。~使命感の成せる行動である!




 ~私は【効率的に動く完璧主義】だから、過去の職場でも遅刻ひとつしたことなく、両親の病院でも、診察予約に遅刻はおろか予約キャンセルさえしたことがない。また、他人との約束を破ったこともなければ裏切ったこともない【信用第一人間】である。

 だからこそ、己では何もできないくせに約束さえ守らず、口先だけの大馬鹿者には腹が立つ。こういう輩に限って屁理屈や言い訳、反抗だけは一丁前で毒だけはよく吐いて逃げまわる。己の行いの結果が原因で注意されているにも関わらず、いつも反抗して忠告さえも聞かない。いつも周りや他人のせいにして卑屈になり、心底反省しないからまた同じ過ちを繰り返す。


 
 ~こういう輩はもはや人とは言えず、神様から頂いた御魂が【畜生動物霊】と化している。だから己のことだけしか考えず、その心には道徳も秩序も愛情も誠も無く、人の姿をした畜生。御魂と霊層が動物霊と同じまで落ちているから、死んだらそのまま動物霊と化して地獄である。

 世の中には、生きたくても生きれない人間がたくさんいて日々苦しんでいるのに、なぜ、このような堕落した畜生がノウノウと生きていられるのか、真に理解に苦しむばかりである。


 ~過去、いかに立派な行いをしていようが、現在は【畜生界】や【地獄界】にいるような、堕落して周りに迷惑をかけ続けて腐った生き方をしているなら評価は強烈に悪くなる。~過去に経験体験した事柄が、まったくと言っていいほど活かせていないからだ。

 その時点で、過去の立派な経験体験とやらは【時間の無駄だった】ことになってしまうのだ。それだけの行いができていた【潜在的なポテンシャルは高い】のに、本当に勿体無いことだやればできるのに、自ら御魂を曇らせて低い霊層へ堕ちて行ってしまっている【畜生】である。


 『【有言不実行】のホラ吹き口先人間と、【有言実行】の頼り甲斐のある人間』

 あなたの職場や家庭、周りの友達に、こんな対極の人間がいたらどうなるかは分かるだろう。どちらが多くの人間から重宝されるか。どちらがより多くの人間から好かれて必要とされるか。あなたが亡くなったとき、どれだけの人間が惜しんで、嘆き悲しみ泣いてくれるだろうか。



 ~大切なのは過ぎた過去ではなく、現在とこれから訪れる未来だ。情けない過去は償える。あなたがいかに過去に立派な行いをしていようが、現在が駄目なら良い評価はもらえない。~過去どんなに立派であろうと、犯罪者になってしまえば同情はもらえないのと同じことだ。

 逆に、過去いかに駄目人間であろうと、現在が立派になっていれば評価は高くなるものだ。神様だってそうである。諭されるまえは悪神として民を苦しめた神様がたくさんいるが、その悪行を反省して正しい善神となって民を護って来たからこそ、今こうして崇められている。~それが【真実の悟り】なのだ。善神から悪神に堕ちた神様の話など、私は聞いたことがない。




 ~ちなみに私は、恩や借りを貰ったら必ずそれ以上して返す。計画的にではなく、自然とできる。だから、両親や親戚はもちろん、他人から信用度は毎回、完璧と言っていいほど高い。また、毎年~父親の実家がある長野まで墓参りに帰郷するのも私の長男としての使命だ。

 とくに昔から、いつも私が心に留めている儒教の五徳である【仁・義・礼・智・信】。これもきっと背後で護ってくれている守護霊様のお陰か、前世で積み重ねた因果だろう。【慈愛】や【慈悲】といったことも若い頃の私には備わっていなかったが、母親や父親との病院通いや、他人だが多くの患者さんを見て来て、自然と備わったはずだ。

 『他の人間が見ていなくても、神々様や守護神や守護霊、御先祖はすべてを見ている』これもすべて、ワールドメイトに導かれてたくさんのことを教えて頂いた結果だ。神仏御仏が私を見て、『昔に比べて、よぅ成長したのぅ~』~と思って頂けたらとても嬉しい。




 ~それではまず、父親が罹った病気の話をしよう。命を奪う死の病である。

 父親のほうも初めの2年くらいは猛烈に大変で、初めは2014年の秋のこと。そのほんの10日くらい前には彼女と箱根へ2泊3日の旅行に行き、芦ノ湖や箱根神社、大涌谷や美術館を見て、彼女と2人で歩いてあの遠い九頭龍神社まで参拝したばかりだった。



 日にちを確認してみたら、2014年10月27日に箱根神社で撮った写真があった。~とすると、父親を連れて初めに病院に行ったのは11月だ。もう冬じゃないか。私がワールドメイトに入会した月になる。しかも、会員になった日に近い。



 ~それからすぐである。父親が不調を訴えてきたのは。

  父親『オシッコが出ないから、病院に連れてってくれるかい?』


 なんでも、半年くらい前にもそういう症状があったのだという。尿意はものすごくあるのにまったく尿が出なくて、ひじょうに不快なのだという。痛みは無く、その他の体調の変化はまったく無いという。しかし、変だと感じた半年前に、きちんと検査していれば、尿袋を下げての辛い生活にはならなかったはずだ。

 すぐさま得意のネットで周辺の病院を探してあげたところ、その日の午後に隣の市の知っている病院の【泌尿器科】がやっていたので連れてってあげた。さっそく腹部エコーをやってみたところ、膀胱には2リットル近くもの尿が溜まっていたので注射器で抜くことになった。先生も驚いていたのが、すごく印象に残っている。。



 【前立腺癌】の数値を調べるPSA検査をやってみると、基準値が4.0ng/mL以下なのに、なんと50.0ng/mLを突破していたために後日CT検査を実施。詳しい検査の結果、なんと【前立腺癌】であることが判明、転移していてもおかしくないという診断だった。

 追加の検査で骨転移などを調べた結果、不幸中の幸いなのか~転移は免れていた。しかし、自力では排尿ができないため、それからは尿袋を吊り下げての生活と治療へ。~ここから、私の本当の苦労が始まった。この様子についてはまた後ほど記載する。




 ~そして、その先生との出会いも本当に奇跡だった。あとから調べてみたら、その先生は少し離れた市の大きい大学病院の【泌尿器科】で準教授を勤めているうえ、学会ではいくつも論文を発表しており、その腕や知名度は超一流、講演会なども開いている。

 もちろん診察だけでなく、多くの患者さんの【前立腺癌】の手術も執刀してきており、【前立腺癌】の世界では知らない医師はいないほどの権威あるスーパードクターであった。



 ~目がほとんど見えない父親いつも気遣ってくれるうえ、丁寧に説明してくれるのも忘れず、【尿が出ないほど大きい腫瘍だった前立腺癌】を、【手術も抗癌剤もナシ】で治してくれた。 ~男の私から見ても、会うたび、とてもカッコ良く思える先生である。

 しかも、その日の午後に連れて行った病院には週に1度、その先生だけがその曜日の午後だけ診察に来ており、偶然が生んだ本当の奇跡としか言い様がなかった。すぐに、その先生がいつも診察や手術をしている某大学病院に紹介状を書いてもらって転院。朝早くに家を出ても途中から通勤ラッシュ、裏道を使っても車でも1時間くらいの道のりだった。




 ~私が右手首の【TFCC損傷(三角線維軟骨複合体損傷)】という靭帯を2本断裂して近くの総合病院に駆け込んだ折、一番初めのおじいちゃん先生が、手術をしてくれたあの中村先生を教えて育てた慶応の教授だった時と少しダブッて本当に驚いたのだが、こういう強運はすべて、ワールドメイトの神々様のお導きと御守護だったと自信を持って言える。

【TFCC損傷(三角線維軟骨複合体損傷) Wikiー概要】
 ┗『TFCC損傷(三角線維軟骨複合体損傷)

このWikiに記載ある中村俊康先生が、私の手術をしてくれたスーパードクターである。
 ┗『和魂カテゴリ - 手首TFCC損傷手術



 ~私が受けたのはまさに、中村先生にしかできない鏡視下でのオリジナル複合手術だ。 現在でも再び断裂することはなく、なんとか無事に日常を過ごせているのだが、なぜか右肘の関節もバキンバキン鳴らせるようになってしまったうえ、手首を逸らすと手術した靭帯が猛烈な引きつりと痛みを起こす日もある。

 たぶん、一生溶けないまま特殊な糸が繋がっているせいか、TFCCがミリ単位で微妙に変わって繋がったせいだと思う。だからこそ、もし転んでも右手は絶対につけない恐怖がいつもある。

 ・腱鞘炎の再手術をしてくれた、スーパードクター山口先生。
 ・右手首のTFCC損傷のオリジナル手術をしてくれた、スーパードクター中村先生。



 ~そして、父親の主治医であるこの先生も、間違いなく【スーパードクター】である。先生はいつも元気良くハッキリ喋ってくれ、エライ先生だからといって威張ることもなく、患者を見下す態度も見せず、いつも使命感と責任感に溢れるオーラを発している。力強く響き渡る素敵な声をしていて、とても歌が上手そうである。(なんとなく直感)


【Sixx:A.M. - We Will Not Go Quietly (Official Video)】

 ┗『SIXX:A.M. | 激ロック インタビュー


また毎年、年末にはお世話になっている先生に必ずこう挨拶をしてきたのだが、

 WIN『ふぅ~。先生、今年も本当にありがとうございました!また来年もよろしくお願いします。』

 すると先生は『はいっ。息子さんも本当に良く頑張りましたね~(笑顔)』と労ってくれるうえ、父親に対しても『●●さぁ~ん、よく頑張りましたね~。親孝行な息子さんをお持ちで、本当に羨ましいですよ~』と笑顔で言ってくれる。


 そう褒められて、父親も照れながら笑う。こんな些細な気配りもしてくれる素晴らしい先生だ。この先生に会えて本当に良かった。WIN『(本当に素晴らしい先生って、あんがい近くにいるんだな)』。

 これで私は、ほんの【7年くらいの間に3人のスーパードクターと出会った】ことになる。良い医者や病院に巡り会えずに苦労している人間も多い世の中、たった数年間で3人ものスーパードクターと会えたのは、神々様の守護としか思えない。




 ~そして、この先生が勤める大学病院に転院、私たち親子の本格的な闘病が始まった。

 まず、この大学病院に転院して1番初めの診察で言われたのは、再度の詳細な検査のこと。CTやMRIはもちろん、【前立腺癌】の悪性度を調べる為の1日検査入院も必要だった。

 たった1日の入院だが、また私が入院に必要な書類を書いたりして入院手続きをし、病室に案内されたら看護師さんと隣の患者さんに挨拶して、たくさん買って来た飲み物を、備え付けの小さな冷蔵庫に入れてあげる。もちろん、ティッシュや着替えは家から持参。



~しばらく様子を見たら看護師さんに挨拶して、

 WIN『んじぁ~、明日のお昼に迎えに来るね~』っと父親に言って、私は一人で帰宅。父親は次の日の朝食後に、患部に注射を刺して腫瘍の一部を採取して検査へ。お昼に私が迎えに行って退院手続きと会計清算して、ようやく帰宅した。



 後日の診察で、【10段階中の9】と、もっとも悪性度が高い腫瘍であることが判明。スーパードクターの先生が言うには、癌の大きさや悪性度から判断するに、2年前くらいには~すでに癌ができていたのだろう~とのこと。

 『【前立腺癌】は癌の中でも進行度が遅いので~』っと先生は言っていたが、ホントにギリギリのところだったから、父親自身も運が良かったのだろうと思う。全身に転移していて、最悪の【余命宣告】を受けていたらと考えると鳥肌が立つ。~初めに兆候を感じた時に、きちんと詳しい検査をしておけば良かったものを…。




 ~最終的に、スーパードクターの先生がどうやって治療していくかを検討してくれた結果、【ホルモン治療で癌の進行を押さえつつ、連続放射線治療で癌を死滅させる】という方法に。45日ごとの血液検査と診察はもちろん、90日ごとのホルモン治療の注射と薬に加え、35回もの連続放射線治療をすることになったのだが、これはもう被爆量の限界だそうだ。

 だから今後、もし【前立腺癌】が再発したとしても【放射線治療】はできず、薬やホルモン治療、場合によっては手術で対応していくと先生は話してくれた。放射線治療のスケジュールは、土日以外の平日毎日、35日間連続照射という過酷なもの。

 大学病院なので土日は診察や検査、放射線治療は無かった。血液検査と診察は45日(1ヶ月半)おき。ホルモン治療の注射は90日(3ヵ月)おき。



 ~すなわち、【血液検査と診察⇒45日後に血液検査と診察及びホルモン治療の注射⇒45日後に血液検査と診察⇒45日後に血液検査と診察及びホルモン治療の注射⇒45日後に血液検査と診察⇒】

 ずっ~とこの繰り返しを続けながら、合間に35日間連続放射線治療が入った。ときどき不定期に、CTやMRIを撮るように言われて予約を入れたこともあった。
 



 ~そして問題の排尿なのだが、腫瘍のために尿管が圧迫されて自力ではできなかった為、一番初めの病院で処置された尿袋はず~っと付けたままの生活が本当に大変だった。また、2週間ほど使っていると尿袋自体も汚れてくるし、アンモニアで臭くなってくる。

 父親は目がほとんど見えないため、尿袋の中の尿を捨てる時と捨てた後の、袋下部のプラスチックの止めるやつの扱いができず、尿を床にバラまいたうえ、パジャマまで濡らすハメとなり、結局~私がその役目を負うことになってしまったのだ。~目が見えずとてできそうなものだったが、父親はどうも不器用なところがある。

 それからは毎日、朝~夕方~就寝前と父親をトイレに連れていって尿を捨ててあげていた。だいたいいつも朝は8時30分頃、夕方は16時頃、就寝前は22時30頃分だった。父親も、なるべく私が大変にならないよう、飲み物は少しだけ控えてくれていた。




 ~そして完璧主義の私は、尿袋をどう扱っていけば良いか何度も試行錯誤した。まず、尿袋自体をいつも2重のコンビニ袋に入れて、尿が漏れても大丈夫なようにした。

 次に、いつも気になっていた尿が通るゴムの管(くだ)のこと。あまり腰の上の部分に吊り上げてしまうと、管の中の尿が袋へ上手く流れなくなったので、太ももの部分にゴム紐を巻き、それを尿袋とコンビニ袋の手を持つ部分に一緒に巻いた。

(※要するに【チ●チン】より下のほうに袋を設置することで、排尿の力が弱っていても、無理なく自然に尿袋へと流れていってくれるようにしたということ)




 ~次に、いつも同じ場所で折れてしまうゴム管の悩み。いつも同じ場所で折れてクセがついてしまって、そこで尿の流れが滞ってしまっていた為、よく折れてしまう部分にビニールテープをどんどん巻いた。これで尿が滞ることは無くなった。

 (※スムーズに、延滞や滞りなく、尿が流れてくれるようにゴム管を強化したということ)

 そして最後に、寝る時は、あの布団などが落ちないようにマットレスに挟むベッドガードに、太もものゴムでその尿袋が入ったコンビニ袋を吊り下げて睡眠。これで完璧だった。私はいつも何事にも中途半端に妥協するのが嫌な性分で、完璧にしないと安心できないのだ。



 ~いかにミスなく効率よく完璧にやるか。私の完璧主義には父親も本当に凄いと褒めてくれたが、この初め半年間の頃が一番大変であり、どんなに体調が悪くても寝不足で疲れて寝ていても、彼女と会うのに外出やお泊まりしても、必ず決まった時間に帰宅して父親の面倒を見ていた!

 年末年始も含め、この初めの半年間の尿袋を下げての生活時期がもっとも大変だったし、本当に私自身、父親と母親の両方ことで心身は疲れ、いつも気が休まることはなかった。




 ~もちろん、大学病院へ先生の診察へ行く時も常に尿袋は下げたままだ。往復の最中、途中のコンビニなどで車を停め、父親をトイレに連れてって尿を捨ててあげたことも多々ある。しかしなにより、父親が常に尿袋を手で持っていなくて良くなるので、父親自身も楽であった。

 また、私が考案したコンビニ袋に入れることで、他人の目をごまかすこともできたし、父親自身も恥ずかしがらずに病院の中を歩けた。我ながら~本当に完璧主義だと思う。いま思い出しても、本当に良く気が効いて尽くしてあげれていたと思う。



 また、家の中では腕を引かなくても父親は大丈夫(何十年も住んでいる家だから)なのだが、病院や外を歩く時は~さすがに片腕を支えながら歩かないと父親は歩けなくなるため、『腕を支えて一緒に歩くのが恥ずかしい』などと言っていられる場合ではなかった。

 しかも、私は身長が高くて身体も大きく、足も長くて歩幅が広いため、背が小さくてトボトボ歩く父親を一緒に連れていると、【万引き犯を捕まえている怖いお兄さん】か【引っ張って連れ去ろうとしている不審者】にしか見えない。

 おまけに、私はしょっちゅう風邪を引くし、今までに2回も肺炎を患っているから、外出する時はいつもマスクをしている。そのため、他人からは親子には見えない。父親と一緒に銀行などに行くと、今まさに【オレオレ詐欺の真っ最中】のように見られる。~本当にこれだけはどうしようもないから頭が痛い。。





 ~通院日。朝早くは道も混むし~いつもいつも寝不足で運転する私は辛かったが、診察へ行くときは、ほぼ寝たきりだった母親の部屋の冷房の温度を調節したのち、必ず朝7時前、遅くとも6時50分には父親を乗せ、急いで車を走らせていた。

 さすがに7時を過ぎてくると通勤ラッシュの車で道路は渋滞、動かなくなってくる。裏道を使っても通勤ラッシュ、国道に出ても通勤ラッシュでそれはそれは大変だった。



 病院に着くと、まず先に父親を血液検査の待合ホールの椅子に座らせておいて、それから私が父親の診察券を持って自動受付機の列に並ぶ。確か、自動受付機が動き出したのは~7時45分だか50分だったと記憶している。

 1日の予約患者数が"2000人"を超える巨大な大学病院は本当に混雑が凄く、7時半過ぎには自動受付機に行列が並び始め、しかも血液検査となれば、すぐに100人以上もの患者が血液検査の待合ホールに大集合している恐ろしい状況になる!~いったい何の大集合だよ?@@;~と始めは正直驚いたものだ。




 ~この自動受付機が稼動を始めて、ほんの5分や10分でも並ぶのが遅れると、それが血液検査の順番に響いて、あっという間に70番とか90番とかになってしまう。なぜなら、自動受付機は1つだけではなく、病院のアチコチにたくさんあるからだ。

 血液検査が少しでも遅くなれば~結果が出るのが遅くなってしまい、当然、診察に呼ばれる時間も遅くなるため、皆われ先に自動受付機に並ぶのだが、なんだかいつも、【ソワソワイライラしたような気】~を私は感じていた。



 だから、血液検査がある朝はまさに戦場だった。多くのライバルよりいかに有利に立つか。運が良かったことは、父親が目の障害者手帳を持っていたので、道路向かいの巨大駐車場ではなく、病院の出入口の目の前にある障害者専用駐車場に停めれた事。

 障害者手帳を持っていて警備員に見せると、優先的に停めさせてくれるのである。もちろんそれでも、車の列に並んで順番に停めるのがルールであった。



 ~診察前の血液検査が終わったら、2階の泌尿器科の診察室前の椅子へと移動して、あとはゆっくり休憩、診察に呼ばれるまではスマホで株式市場やニュースを見ていた。血液検査の結果が出るまで~だいたい1時間近くかかるので、それまで待ち。

 だんだん予約患者さんがやって来て、待合ホールは予約の患者さんでいつも溢れる。番号が表示されて診察に呼ばれたら、父親の腕を引いて診察室へ行く。久しぶりに会う先生に挨拶して、血液検査の結果などを聞きながら近況報告をしていた。


 ・【前回のホルモン注射から45日後の診察ならば、ホルモン注射は次回へ】

 ・【前回のホルモン注射から90日経っていたら、ホルモン注射をお腹に打つ】


 放射線科の診察と放射線治療がないときは、このまま会計して終了だ。

 ~放射線科の診察や放射線治療がある時は~まだ帰れないから大変だった。父親を連れてエレベーターで地下へ行き、エレベーターの近くの椅子でかなり待って、放射線治療の時間近くになったら、先にトイレを済ませてあげてから放射線科へ行った。地下の一番奥の放射線科の受付にファイルと診察券を出し、呼ばれるまで待つ。

 放射線科の診察は~ある時と無い時があり、診察がある時は放射線治療の前に入った。放射線治療は~いつも決まって11時間30分からの予約だったのだが、それは、父親の前から継続して放射線治療を受けていた他の患者さんの予約で埋まっていたから。~だから父親も35日間連続、毎日同じ11時間30分からの放射線治療だった。



 ~この放射線科の担当になってくれた先生が、超絶~田舎なまりに喋る先生。『どこの出身ですか?』とはさすがに聞けなかったが、とても優しくて気遣ってくれた。

 この連続放射線治療も35日間すべて私がキャンセルや遅刻ナシで連れて行ったから、待合室で毎日顔を会わすオバちゃんやオジさんと顔見知りになって、世間話をするたび、『本当に親孝行な息子さんだね~』と褒められて、誇らしげに喜んでいた父親がいた。


 (※放射線ケアの先生と乳癌の放射線治療に毎日来ていたオバちゃんを撮影)


 放射線治療では、まず放射線治療室へと続く廊下の前に比較的広い待合スペースがあり、毎回ここで着替えさせられた。ここにはテレビがあるので私はいつも7チャンネルにし、お取り寄せグルメの虎ノ門市場を見ながら、呼ばれるまで父親と椅子で待っていた。

 そして、ちょうどMプラスが始まって少し、放射線技師が呼びに来るので父親を引き渡す。~『引き渡す』なんて言うと【マフィアの人質交換】みたいな言い方になってしまうけど、放射線室には付き添いの私は入れないので、放射線技師の人が父親を引っ張ってってくれた。



 ~そして私は、Mプラスのニュースやマーケット情報を見ながら株式市場をスマホでチェック。父親の一番初めの放射線治療では、下腹部から下半身にマーキングをされていたが、照射するときの目印となるので、お風呂に入る際は強くこすらないように注意された。

 1回の放射線治療自体は早く、いつも、ほんの15分前後くらいで終わっていた。35日間も受けるのだから被爆量は限界になるため、1回の放射時間は短いのだそうだ。終わったら~また放射線技師が父親を連れて来るので、お礼を言って終了だ。



 着替えをさせて、これでやっと会計へ。地下の一番奥から父親の腕を引いて一緒に歩く。しかし、放射線治療が終わればもうお昼。他の患者さんたちも診察を終えて会計の列に並ぶ人が多くなり、一番酷い時では200人くらい並んでいることもあった。

 しかも、会計しても電光掲示板に番号が出て清算できるまではさらに時間がかかる。6回目の三峯神社奥宮登拝の当日など、この会計と清算だけで40分もかかったのである。

 ┗『6年連続7月22日の三峯神社奥宮登拝達成!!


【Andy Black - We Don’t Have To Dance (Official)】


 ~毎日、ほとんど目が見えない父親の腕を引いては病院中を歩いた。会計と清算時はホールに座らせてあげて、自販機で父親が好きな缶コーヒーを買って来てあげてから、私が機械で清算して来る。 清算のあと、薬をもらったりするのも、もちろん私の役割だった。

 病院を出るまえは必ずトイレへ寄って、父親の尿袋をスッカラカンにする。処方薬があるときは一緒に車に戻り、冷房の効いた車内で父親を休ませておいて、私は父親のお薬手帳と保険証を持って、歩いて信号を渡って向かいの薬局へ行った。


 あの連日の猛暑の中での35日連続放射線治療はさすがに辛かったし、帰りはよくスーパーへ寄って家族分のお惣菜も買ったりもしていた。猛暑の中を1時間ずつの往復の運転をするだけで背中はいつも汗だくだ。~そして、この父親の通院と重ならないように母親の通院も私がやっていた。



 ~私が車持ちだったのが幸いしたが、あの連日のもの凄い猛暑の中で電車通院だったら、さすがの私でも勤めあげられたかは正直自信がない。病院内には~付き添いもおらず、独りで杖をついて歩くのも辛そうな、おばあちゃんなどもよく見かけた。

 駅からはかなり離れており、自家用車が無ければタクシーかバスでしか来る方法はない。~だからこうして毎日、息子の私が父親を孝行できたのも神様のお導きのはず。連日の猛暑の中、親子水入らずで本当に良く頑張って通院したと思う。



 父親が普通に目が見えていたら~私もここまで世話をしなかったと思うが、日本人の半数以上の命を奪って来た癌。その発見が遅れても転移で死ぬし、運よく発見できて治療しても、治らずに転移や再発で亡くなる人間があとを絶たない。~その【癌の告知】を受けた父親が落ち込んでいたのは、私も良く分かった。

 幸いだったのは、『残念ですが、すでに全身に転移していて余命3ヵ月です…』~などと言われずに済んだこと。いかにメンタルが強い人間でも、さすがにこれはこたえる。ちょうど糞暑い真夏の最中だったので、余計に辛かった思い出として残っているのだが、一番辛かったのは~【前立腺癌という死の告知】をされた父親自身でもあっただろう。



【父親の前立腺癌治療の時系列】

 2014年秋に父親の前立腺癌発覚 ⇒ ホルモン治療を開始。半年間後まで尿袋を下げる。【このホルモン治療の注射は当初から現在まで、ず~っと90日ごとに打っている】

 ↓↓

 翌年2015年春に自力排尿回復 ⇒ 7月後半から35日間連続放射線治療を開始。【その間も血液検査と診察は45日おき。ホルモン治療の注射は90日おきを継続】

 ↓↓

 2016年に現在の一番始めの病院に戻してもらい今だに通院中 ⇒ 8月末に母親死去。【その間も血液検査と診察は45日おき。ホルモン治療の注射は90日おきを継続】

 ↓↓

 2017年の現在でも、90日ごとに診察+血液検査+ホルモン治療の注射は継続中。【PSA値も低く安定しているので、診察と血液検査も90日おきになった】

 ~この泌尿器科のスーパードクターの先生とも、もう4年目に入る。今は、その先生が診察に来ていて一番始めに会った地元の病院に戻してもらい、3ヵ月に1回の血液検査と診察及びホルモン治療の注射となっている。


 PSA検査では基準値が4.0ng/mL以下のところ、現在では0.1とか0.2に治まっているが、この数値が跳ね上がれば~また【前立腺癌】が再発したとなるのだから、当然、定期的な検査はやっていく必要があるのだという。

 なんとか無事に父親は延命し、最愛の母親の死に目を見れたことは、目が悪いながらも家族のために立派な家を建て、区役所で公務員として36年間立派に勤めあげてくれた父親への、神様が与えてくれた機会というか~幸せだったのだろうと今では思う。



 ~ちなみに、父親の出身は長野県で、母親は東京の目黒だった。父親は5人兄弟姉で上から4番目。長男、長女、次男、父親、弟の順番だそうだ。母親は7人兄弟姉妹で、長男、次男、長女、母親、三男、四男、妹と真ん中だ。

 父親方のご先祖は、あの上田城で有名な真田一族に、草履?だかなんだか、~履くものを作っては納めていた先祖だったと父親から聞いた。


 WIN『(おいおい農民?足軽??武士じゃないの?足軽兵か?農民兵か?田んぼの中を長槍持って、『ウオォォー!!!』と叫びながら戦ってたのか?

     なんだよ、騎馬隊とかで戦場に出てたんじゃねーのかよ!!う!!…草履?…は、はしば…羽柴秀吉!?と、豊臣の末裔か!!』



 ~昔、父親のすぐ上のお兄さんが認知症になる前のこと、『●●家の先祖は~御殿場だか諏訪だかの方から来たんだよ』っと私は聞いたことがある。御殿場といったら富士山や箱根にも近いし、甲府(甲斐)を抜けて北西に上ったら諏訪、その甲斐と諏訪の中間から北上すると…!!! ドンピシャにウチの田舎がある市ではないか!!

 WIM『(おぅ…おじさん…諏訪と御殿場じゃ正反対だよ……)』


 ~それで、お墓の家紋を調べてみたところ、あの諏訪大社に縁が深い【梶の葉】の家紋だった。

  ┗『名字と家紋_column(梶)


 上のサイトを見てみると、『信濃にある諏訪大社の神紋として有名。そして、神家党とも呼ばれる諏訪一族の代表紋である】~と載っている。その他もいろいろ書いてあるが、難しすぎて私ではサッパリ分からない。


~上のサイトの下部から抜粋~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

平安時代中期以降、神家の嫡男が諏訪社の大祝を継ぐのが例となった。

その頃より一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出して大祝家を宗家とする武士団を形成、東国屈指の勢力を誇り世に「神家党」「神氏」といわれた。


手塚・有賀・保科・上原・知久・藤沢などの家々で、これら庶子家はこぞって「梶の葉」を家紋した。

いまも、家紋に梶の葉を使用して信州との縁がある家の場合、諏訪神党の流れを汲む可能性が高い。また、各地に分祀された諏訪社の神官あるいは氏子などであったとも思われる。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 『ウチの名字が入ってる。こ、これは凄いのか??』

 ご先祖は諏訪大社の神職だったとは聞いたことがないが、しかし、長野の実家の先祖代々の墓に実際に【梶の葉の家紋】が彫ってあるのだから、何かしら、諏訪大社に御縁がある先祖の家系なのかも知れない。

┗『長野県のご先祖調べ ~家系図作成からルーツ調べ


~上のサイトの下部から抜粋~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このなかで長野県の代表する家紋は梶紋と菱紋です。

梶紋は、諏訪大社の神紋として知られています。梶の木は神聖な木とされ、その葉は供え物の敷物に使われました。


神官や神社に奉仕する家々は梶紋を家紋として使用するようになり、 さらに諏訪氏の一族や諏訪大社を信仰する者の間で広がりました。

長野県の中・南部に梶紋が多いのは諏訪一族と諏訪信仰の広がりによるためです。長野県出身で梶紋を使っているとすれば、諏訪氏一族といわないまでも、 先祖が諏訪信仰と関係していたかもしれません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


上のサイトの【諏訪氏流(神家党)】の中に、見事に名字が入っている!!
~しかも実家は長野県の中南部だから、やはり諏訪大社と縁が深いのだろう。

 ┗『諏訪神党 - Wikipedia


【神家一党33氏】に記載があるとは…。昔、ワールドメイトの●●支部に在籍していた頃、私の車に支部の仲間たちを乗せて、みんなで八ヶ岳開きに行ったことが懐かしい。八ヶ岳秘鍵開示会の極秘資料も持っている。諏訪大社の神々様に導かれたのかな?

今度、長野へ墓参りに行ったら、御先祖のことをもう少し詳しく調べてみたい。



 ~かなり前、田舎がある【長野県●●市】の戦国時代のことを調べたら、【あの武田信玄の軍勢に最後まで抵抗していた地域】だとか見た記憶がある。

 WIN『おいおい、戦国最強の武田信玄の騎馬隊で戦ってたんじゃねーのかよっ!!』



 誰も先祖の詳しい話を知らないとは~『そんな適当でいいのかっ!!@@;』でも、かなり昔に長野の兄ちゃんたちと先祖代々の菩提寺へ…何ていうんだけか…帳面…



 その先祖代々の菩提寺は、あの有名な空海様が伝えた真言密教のお寺。だから昔から、薬寿師や九頭龍師や救霊師よりも、神伝密教師に惹かれていたのかもしれない。



 ~また、父親がまだ子供の頃、、そういった戦国時代の巻物やら宝物やらが実家の蔵にたくさん保管してあって、それらすべて、市の歴史博物館とやらに寄付?だか、あげてしまったそうだ。

 WIN『(おいおい、取っておいたら数億円の価値はあったお宝だろー!!アホかー!!)』


 父親もあまり良く分かっていない。長男は何してるか私は知らず、兄は認知症で寝たきり、姉は死去、唯一、あの潔癖症で完璧主義で怖い~父親の弟さんが何か知っているかも?

 あ~兄の子供たちが長野に3人もいるぢゃないか!!今度、機会があったらぜひ聞いてみたい!!!~そのお宝の行方を…ヘッヘッヘッ



 ~父親は田舎では中学校しか出ていないが、長男と弟と一緒に3人で東京にボロアパートを借りて、3人で仲良く釜の飯を分け合って暮らしていたそうだ。

 父親の両親だが、父親は私が生まれるはるか前に戦争で亡くなり、母親も私が生まれる前に亡くなったそうだ。だがら、長野の田舎の実家の遺影では、軍服姿のお祖父ちゃんと着物姿のお祖母ちゃんが2人でモノクロ写真で飾ってある。

 私は~父親の一番上のお兄さんと会った記憶がない。たぶん~小さい頃に会っていたはずであるが。父親のお姉さんは~もうだいぶ昔に亡くなっていて、すぐ上の兄はもう認知症も末期で寝たきりになっている。



 ~その認知症で寝たきりのお兄さんの子供たちが長野に3人とも健在で、長男の兄ちゃんは数年前に結婚したが子供はできないまま、一番上の長女はその兄ちゃんよりずっ~と前、3人の中で一番初めに結婚。

 現在はもう社会人の二人の娘がいる。一番下の兄ちゃんだけまだ独身だが、一緒に住んでた兄貴が結婚したために、すぐ隣に一軒家を立てて住んでいる。


 独身で彼女もいないのに、あんな立派な家を建てること自体に驚きだが、何十年も彼女を作らずに、真面目に生きて来た~という努力の証だろう。

 この3人とも、私より年上である。この独身の次男の兄ちゃん、先日、男子100m走の現日本記録の9秒98を出した桐生祥秀にとてもよく似ている。



 ~私の父親の弟さんが、これまた私以上に気配りと完璧主義が凄い。度を超えて恐ろしいほどで、グラスの底に少しでも汚れがついていたら
洗い直すうえ、少しでも散らかって汚れている部屋には泊まらない。

 私以上に気配りの達人で、周りへの注意や配慮や気配りが凄い。私以上に完璧主義なうえ、極度の潔癖症というところである。


 私が昔から父親の面倒を見ているのを知っているし、田舎で親戚の葬儀があった際、私が父親に対する気配りや、周りに対する配慮や態度、挨拶なども良く見ていたのも分かっている。また、父親みずから前立腺癌の通院や母親のことを叔父さんに電話でも話していたから、その叔父さんの私に対する評価は高い。



 ~しかし、それほどの厳しい人であるからこそ、自ら会社を立ち上げ、従業員100人もの立派な会社して、創業者として引退した足跡がある。数年前に会ったとき、高級車レクサスLSに乗っていたのには驚いた。

 現在は横浜駅のすぐ傍に立つ高級マンションに、階は違うが、息子夫婦と住んでいる。その息子さんは私と同い年で、もう結婚もして子供も生まれ、公私共に順調である。



 ~そんな怖い父親の弟さんから、『兄貴をよろしく頼むよ、●君!!』っと念を押されれば、放っておくことなどできるわけがないではないか。私が父親や母親の通院さえ放棄して遊びまわったあげくに、そのまま両親が亡くなっていたら、私は親戚中から責められていたはずだ。

 長男として立派に付き添いをやっていることは知ってくれているので、私も一安心である。~しかし、昔の田舎育ちの人は本当に厳しくて怖い。ああいう気骨と気概のある人たちが、この日本を作って来れたのも納得だ。~それに比べ、現代のゆとり世代の人間は本当にどうしようもない。

 堕落している人間ばかりで、明治大正昭和とこの日本を創って来た人間に比べ、圧倒的に【気概性】や【根性】、【気迫】や【やる気】などが無い者ばかりだ。すべては【幼少期からの親の教育につきる!!】~と私はいつも思っている。



 ~だから、長男として父親と一緒に長野へ帰郷して墓参りをしたり、なにかと両親の手助けをできて来たことは、自分自身を誇らしく思える。ご先祖のお陰で両親がいて、その両親のお陰で自分はこの世に誕生しているのだから。

 そこには何百年と連綿と続いて来た家系と因縁因果があるからゆえ、『先祖や家族親戚なんて関係ない!オレはオレだ!!』~などと自分勝手なエゴで両親や家族親戚に迷惑をかけ続ける最低な輩は、ご先祖はおろか、神々様や守護神様、守護霊様の御加護や御守護さえ貰えなくなる。だから不幸になる。



 ~なぜなら、両親は先祖へ通じ、その先祖を永遠と遡ると【神様】に辿り着くからだ。自分の守護霊はご先祖なのだから、その守護霊や神々様に反抗しているのと同じなのだ。それが、遥か何千年も古代から続いて来た【日本神道】の思想や伝統である。

 そんな単純なことさえ理解できないのだから、【御魂が畜生動物霊化している】のである。だから、ひとり寂しく貧しいままに行きる羽目になり、死んだらまた地獄へ戻るしかない。

 それも、その人間が背負った宿命や因果因縁なのだろう。本人が反省して心を入れ替え、自ら立派になるしか救われる方法は無いのである。



 ~人間は誰しも【神様からの分魂】を授かってこの世に生まれて来ている。あなたは、『なぜ神社の拝殿に御鏡が飾ってあるのか』~を答えられるだろうか?だから、【神様の御心のまま】に従うように、素直に生きていれば間違いはないのだ。

 ワールドメイトでいろいろ教わったからこそ、天命や宿命、因縁因果というのも知れた。教えて貰わなければ決して分からない神道の神宝など、本当に深見先生は凄い方である。




 ~話を戻そう。

 そんな父親は国家資格であるボイラーを操作できる資格を取り、初めは東京のどこかのビルの地下にあるボイラーの仕事をしていたそうだ。

 そんな時、NTTの電話交換手をしていた【超絶美人だった母親】と知り合い、結婚することとなる。母の若いころのモノクロ写真を見れば【超絶美人】である。~父親はあまり変わっていないから、私は母親似で本当に良かったと思う。(笑)


 そのあと、区役所のボイラー技師の仕事にありつき、数年後に上の職員へ。そのまま営繕課でかなりの役職まで出世、定年まで36年間立派に勤めあげた。

 バブルの頃のボーナスなど【テーブルの上で給料袋が立った】というのだから、数百万円は貰えていたのだろう。やっぱり凄い父親であり、本当に偉大だと思う。



 ~また、父親は競馬競艇パチンコなどは一切やらず、飲むのも自宅に帰って来てからという本当に真面目な男である。女遊びもいっさいやらない。田舎が長野だし兄弟も真面目、幼少期の父親のしつけが強烈に怖かったと聞いているから、そのお陰もあるのだろう。

 そして、私が2~3才くらいの時に現在の場所に引越して来た。引っ越して来たばかりの頃は周りは林しかなく、平屋だった頃の写真を見たことがある。確か、私が幼稚園に入ってから少しして、現在の立派な家に立て替えた。


 こ近所を見回してもウチはかなり大きくて立派だし、大増築もしていて、洗面所、トイレ、風呂場なども新しく造り直したし、私の部屋も2畳分増築してくれた。

 風呂の湯船など私が足を伸ばして入れるし、トイレなど小便器と大便器の2つもある。横には車が2台も停められるコンクリートで固めた立派な駐車場も造ってくれた。私が幼い頃、池まで造って鯉まで泳がせていた。



 ~その区役所に勤めていた頃は~眼鏡ながらきちんと見えていて、駅まで自転車通勤。それから1時間くらいは電車に乗って職場がある駅で降り、近くの区役所まで徒歩。目が悪いために結局、車の免許は取れずじまい。~母親も自転車しか乗れなかった。

 父親も母親と一緒で本当に真面目で立派。私が幼少期や学生の頃でも、仕事の愚痴や同僚の悪口などは~私たち子供の前ではいっさい口にしなかった。寡黙だが有言実行の高倉健のようだ。素晴らしい人間だと思うし、昔は家族を旅行や登山などにもたくさん連れて行ってくれたことも私はちゃんと覚えている。



 ~そんな立派で素晴らしい両親を、私は何度も迷惑をかけて泣かして来た。これは自慢できる話ではないし、さすがに引かれるので止めておく。まぁ~今までのたくさんの記事で、そのあたりのことは察してほしい。

 そして20代半ば、霊障も凄まじく生活はどん底だったとき、西谷泰人氏の大想念を読むこととなり、平成7年11月17日に初救霊。その救霊後にそのまま現在のワールドメイトに入会して、今に至るのである。


【GARNiDELiA / Hands [Official]】


 ~ワールドメイトに導かれたお陰で、あれだけ迷惑をかけて泣かせてきた両親の孝行もできて来たのだから、本当にワールドメイトの神々様や守護霊様には感謝でいっぱいである。

 こうして父親も助かり、母親も最悪の死に方だけはしなかったのは救いだし、たくさんの強運が上手い具合に重なって奇跡を起こしてくれたのは、三峯を始めとするたくさんの神々様の御守護のお陰だと、私は思っている。



 今だからこんなこと言えるが、もしあの時、、西谷泰人氏の大想念を読んだ後に救霊の予約を入れてなかったとしたら、たぶん、現在の私は存在しなく~とっくに死んで地獄にでも行っていたと思う。

 誰とは言わないが、運が悪い人間はトコトン運が悪い。自分の意思とは逆に、なぜか悪いほう悪いほうへ流れて行ってしまう。それもやはり【運と因縁】だ。それでも本人はおかしいと思わないのだから、そこに【霊障】が隠れている。



 ~また、ワールドメイト会員ならお馴染みの【一霊四魂】~荒魂・和魂・幸魂・奇魂であるが、私は霊的に敏感なので、【奇魂】は神様が強くなりすぎないように抑えてくれていると感じる。

 【和魂】は協調性に通じるが、私は誰とでも仲良くなれるし、人見知りもしない。職場でも支部でも重宝されて来たし、だからこのブログの名称に入れた。これは良し。

 そして力強さや忍耐や根性を司る【荒魂】~母親のこともあり、家族や彼女を守るために男ならば強く逞しくなければいけないと思って筋トレに励んでいたが、この筋トレでオーラが3倍くらい大きくなったように感じている。だから、これも良し。



 ~すなわち、なにが言いたいのかというと、神様から見て、私にもっとも欠けていたものは【幸魂】。これは自分でもそう思う。昔から普段のお祈りができなかったのも、たぶんそれが原因なのであろう。

 だから、母親や父親の面倒を見ることによって【幸魂】が私の中に根ずくように、神様が私に試練を与え、いろいろと体験させてくれていたのだと~今はそう思う。そして、その【幸魂】をさらに磨けるように、神様が【世界一密教師】になることを許してくれたと。



 ~なぜなら【世界一密教師】になれたのは、2014年11月に父親の前立腺癌が発覚してから、たった1ヶ月ちょい後くらいの年末、2014年の師走(12月)だからである。いま思えば、父親が私に訴えて来た~ほんの数日前に彼女と行った箱根旅行。彼女と私の2人しか参拝者がいない中で長くお祈りした、あの遠くの九頭龍神社。



 たぶん九頭龍大神様が、私を【世界一密教師】になるよう導いてくれたと思う。 ~今この文章を打っていたとき、眉間が熱くなって全身がポカポカしているから、『そのとおりじゃ!』~っと守護霊様が言っているのだと思う!!

 私は本当に神々様には、自分の事のみならず、このように家族の分まで世話になって来た。だから、このブログの今までのいろんな記事にあるとおり、本物の神様は存在する。



 神々様や仏様を信じなく、【運】というものさえ否定する人間も多いとは思うが、私が嘘偽りなくすべてを晒してきたこのブログの記事を隅から隅まで読んで頂ければ、人智では決して計り知ることができない大きな神々様の存在を感じて頂けるはずである。

 神々様を心底信じていないから、その神々様の御神力も御神徳も授からない。人間の感覚や気持ちだけで神々様の器を判断したり決めたりすること自体が過ちであり、私たちは、【神々様の御心のまま】に生きるように努めるのが大切なのである!




 ~それではここから、肝心な母親の通院の様子などを記載しよう。

 母親が、この病院に掛かってからは長かった。呼吸器科にとても定評のある病院で、県外からも患者は大勢来る。主治医の先生方も親切丁寧で、本当に母親には優しく適切に接してくれていた。

 この病院に巡りあったのも、三峯神社の奥宮登拝をしてからのことである。腱鞘炎の再手術の時もそうだったから、やはり三峯神社は即効性のある御神徳を頂けるのが本当に早い。



 ~だから毎年、三峯神社の奥宮登拝をしては母親の病気の完治もお願いして来たが、さすがにそこまでは叶わなかった。だからこそ、、そんな母親をもっともっと親孝行してあげられなかったのが本当に悔しい。

母親の持病は【非結核性抗酸菌症】【気管支拡張症】【間質性肺炎】の3つ。


 併発しているうえに完全に治せる特効薬もなく、肺の細胞が徐々に破壊されていった。だから母親の肺のレントゲン写真はいつも白い影で真っ白、おまけに、肺のたくさんの血管に詰めたコイルのせいで多くのミミズが這っているかのように見え、それはそれは酷い状況で、晩年は良かったほうの片方の肺まで持病に侵されていた。



 主治医『完全に治る薬は無いので、進行を遅くするのが精一杯の現状なんです…』っと、いつも言われて来た。


 私としては効き目が強い薬にしたいのだが、強い薬にすると飲む薬の種類も増え、その副作用で母親は気持ち悪くなり、食事も取れなくなって余計に体力が落ちる。

 弱めの薬にすると、今度は病気に効きずらくなって、肺の病気は進行していって肺の細胞は破壊されていく。だから選択に挟まれて、私自身ひじょうに辛かった。



 ~もちろん父親にも相談したが、先生が選択してくださったのは、『食べれなくなって体力が落ちてしまったら免疫力も落ち、結局、病気も進行してしまいますから、弱いほうの薬にして、普段の食事をしっかり取って体力をつけるようにしていきましょう』だった。人間本来が持つ自然回復力に期待していくしかなかったのである。

 だから、破れて大出血を起こしそうな肺の血管にコイルを入れる手術を2回に分けて行ったうえ、その他にこの病院だけで肺の病気の体調悪化による入院は2~3回していた。

 そのつど、主治医と話をした内容を父親に伝えたり、入退院の身支度や荷物を運んだり、入院書類の手続きや会計など、目がほとんど見えない父親に代わって~すべて私がやって来たから余計に悲しみも深い。



 ~母親は若いときから体が細く、乗り物酔いしてしまう体質だった。そして、母親の兄弟姉妹みんな細くて背が高いうえ、4人は肺の病気を経験している。だから、母親が肺の病気になったり、私自身が気管支炎や肺炎にかかったりと、これらも母親がたの家系の因縁なのだろうと、私は思っている。

 ちなみに、母親の長男のお兄さんも網膜剥離で手術、次男も網膜剥離で手術、三男も網膜剥離で手術、そして母親も網膜剥離と白内障で手術、極めつけは私自身も網膜剥離で手術と、これまた凄い遺伝というか因縁である。



 ~父親がたは脳出血が多い家系である。父親のお兄さんは今でこそ認知症だが、昔に脳出血で倒れており、またその奥さんも脳出血が原因で寝たきりになった。そして私の父親も、かれこれもう2回ほど脳出血で倒れて入院している。

 なんとか後遺症は免れたが、現在でも45日おきくらいに定期的な診察を受け、血圧を下げる薬を毎日飲んでいて、いつも私が病院に連れてってあげている。 父親の前立腺癌の定期診察に加え、脳出血の定期診察。~しかも別々の病院。

 これも長男としての使命なのだろうが、できれば悪い因縁は切りたいものだ。このように家系と因縁とは、切りたくても切れぬ縁だというのがよく分かる。~私がそれらの因縁を絶つ役目として、この世に生まれて来たのだろうか…



 ~実家から母親が掛かっていたその病院までは、裏道も使って空いていたら最短40分。診察予約は主治医がいる月曜日で、いつもだいだい午前11時~11時30分の診察だった。

 だが、診察までに血液検査とレントゲンを済まさなくてはいけないし、血液検査の結果が出るまでだいたい1時間と言われていたので、診察予約時間から逆算して、遅くとも10時までには着くようにしていた。



 ~病院に着いたらまず先に出入口に車を停め、母の手を引いて中のソファに座らせてあげた。そして、『車停めて来るからここで待っててね!』~と言って車に戻り、駐車券を取って病院の敷地内にある大きな駐車場に停めていた。

 ~車を停めたら母のところへ戻り、母の体調によっては車イスを使うことも多かった。そして、母のために自動販売機でお茶のペッドボトルを買ってあげてから、自動受付機に診察券を通して血液検査に向かう。仕事では段取りが大切だが、私も【効率的かつ完璧主義】がモットーなので常に最善かつ最速に効率良く動いた。



 ~私は記憶力が良いので小学校前の幼少期の記憶さえ多く残っているのだが、幼い頃の私は病弱で、母親に手を引いてもらって病院に連れて行ってもらった記憶さえ残っている。それが、母親の晩年は逆の立場となって、私が母親の手を引いて病院通いをして来た。

 年老いて皮と骨だけに痩せ劣り、背中が丸まって皺だらけの母親の手を引いての病院通い。最期のほうは車イスに乗せてあげてトイレさえ一緒に入り、尿検査の紙コップも入れてあげた。きっと、どこの家族にもある当たり前の行動や親孝行の姿だと思うが、もっともっと、若いころから親孝行してあげれば良かったと本当に後悔が尽きない毎日である。


 この病院の中は大理石の作りでとても綺麗で、外観もあんがい大きい私もこの病院に肺炎で入院したし、母の入院で何度も上にある入院病棟に行ったから、この病院の綺麗な作りや入院病棟の素晴らしい部屋も好きだったが、外からこの病院を見ると、まるでマンションのように見える外観はなんだか変だ。



 中の作りも変わっていて、小さい中庭を囲むようにして各診察科や検査室がある。中庭にはいつも【カルガモ】の親子が放し飼いにしてあり、小さいプールの中で遊んでいる【カルガモ】親子の微笑ましい姿を母親と一緒に笑いながらよく見ていた。



 血液検査では母親の細い血管で何人もの看護師が失敗して、母親の腕はいつも血だらけ。だから【睨みを効かす】ように母親の後ろに立って、看護師の仕事ぶりを監視していた。その血液検査が終われば次は少し歩いて放射線科へ行って受付にファイルを出して待つ。

 母親をソファに座らせたら上着を脱がせてあげて、ペットボトルのお茶を飲ませてあげる。レントゲンが終わったら上着を着させてあげて、やっとこれで診察まで一段落できるので、母親の手を引いて自動販売機がある休憩室に行ってコーヒーを買って飲ませてあげていた。


 コーヒーを2人で飲んでは『美味しいね~』と言いあい、母親の嬉しそうな横顔で私も笑顔になれた。診察時間が近づくと先にトイレに連れてってあげて、済ませてから診察室がある待合室へ行く。

 診察予約時間ではすぐに呼ばれることもあれば、30分以上待たされることも多かったので、呼ばれる直前にトイレ行きたいと言われないように、先にトイレに連れて行ってあげていた。



 ~そしてこれも、【知恵】と【気配り】があるからこそできる事だと思っているのだが、いつも必ず、母親に他人の病気の菌が移らないようマスクをさせたのはもちろん、母親は肺の病気のせいで【痰】が頻繁に出ていたため、家を出る時にはいらないビニール袋を手提げバッグの持つ部分に巻いておき、バッグの中にはティッシュの箱と飲み物なども入れて病院の中では常に持っていた。

 そして、母親が『カァー』っと痰を出す前フリをしたら、すかさずティッシュをシュシュシュっと3枚くらい重ねて渡す。すると、母親はすぐに痰を吐けるうえ~そのティッシュは、手提げの部分に巻いたビニール袋にすぐ捨てられるわけである。


 行き帰りの車の中でもこの方法は完璧だった。病院から帰って来たら、このビニール袋を捨てれば良い。その【痰】に血が混じると、危険な兆候でもあるため、毎回、『大丈夫?血とか混ざってなぁ~い??』と聞きながら、痰を見て確かめていた。私の性格である【効率的かつ完璧主義】がここにも表れていた。



 ~どんな時でも母親の手を引いて一緒に歩いてあげ、常に気を配って母親に尽くしてあげた。だから私は母親からも父親からも、『本当に良く気が効いて助かるよ』~と言ってもらえていた。

 診察に呼ばれたら母親の手を引いて診察室に入り、先生に挨拶して母親を椅子に座らせ、血液検査とレントゲンの結果を聞きながら近況報告して次回の予約を入れてもらい、ファイルと処方箋を貰って会計へ。

 母親をソファへ座らせてから、母の保険証と診察券を会計に見せ、電光掲示板に番号が出たら機械で清算して、やっとこれで病院は終了となる。



 ~しかし、45日分もある大量の薬を貰わなければいけないので、まだ帰れない。これでだいたいいつも~お昼前後になっていた。そしてまた出入口に戻って母を座らせ、ひとり歩いて駐車場へ戻って車を出して出入口まで戻って母親を迎えに行く。

 すぐ近くの薬局の側にハザードを出したまま車を停め、母親のお薬手帳と保険証を持って、『じゃ~処方箋出して来るから少し待っててね』~と言って薬局へ行って処方箋を出す。



 ここでいつものセリフを言うのだが、母親は飲む薬の種類が多かったので、毎回処方箋を出すとき、『いつも朝昼晩と小分けにしてもらってるんですけど~』と言う。そうすると時間はかかるのだが、一度に飲む薬を一包ずつにしてくれるのだ。

 こうすれば、飲み間違えも防げるうえ、種類ごとに薬を出す手間も省けるのである。このまえ父親の病院のあとに薬局で、 『父親は目がほとんど見えないので、1包ずつ小分けにしてほしいんですけど』と言って小分けにしてもらったら、なんと200円余分に取られたのには驚いた!!@@;



 ~この小分けがいつも時間かかるので、『いつも、できたら電話もらってるんですけど~』っと言って番号の紙を貰い、近くのセブンイレブンに車を停めて、母親の分のサンドイッチやオニギリ、みかんゼリーや栄養ドリンク、お茶のペットボトルなどを買って、車内で母親とほんのひとときの親子水入らずの時間を過ごす。



 2人だけの時間。とても快晴の日で気持ち良いもあれば、天候が荒れて大雨の日もあった。移り行く季節の中、母親の最期まで私が精一杯尽くしてあげよう…いつもそう思っていた。『美味しいね~』っと言って食べる母親が、とても印象に残っていて愛しかった。



 ~母親もとにかく真面目で優しく、他人の悪口など一切言わないばかりか、質素で倹約家。母親の兄弟姉妹の誰に言わせても、母親は兄弟姉妹7人の中で一番の優等生だったという。

 本当に良くできた人で、何年も一緒に病院通いしていてもワガママひとつ言わない人だった。いつもいつも『大丈夫よ~』っと言って、私に気を使わせないようにしてくれた。

 なぜ、もっと昔から親孝行してあげれなかったのかと、母の晩年になって後悔ばかりが募っていった。



 ~きっと私が生まれた時は、父親と一緒になって、 『こんな子に育てたいね~将来は立派になって親孝行してくれる子にしたいね~』などと笑顔で話していたはずである。夫婦の夢。希望。そして愛情。

 そんな姿を、今だから想像できる。気づくのが本当に遅かった。『親孝行したいと思った時にはもう親はいない』~そのとおり、本当に残念である。



 ~彼女とあれだけ遊びに行って美味しい物を食べたり、いろいろ見て楽しんで来たのに、なぜ、母親には温泉やドライブのひとつも連れてってあげられなかったのかと。箱根の温泉や芦ノ湖、私が大好きな箱根神社や大涌谷なども見せてあげたかった。

 綺麗な海も見せてあげたかった。彼女と良く行った南伊豆の弓ヶ浜や、あの茨城の日川浜海岸。沈んでいく太陽の美しいサンセットと癒される潮の香りの風。

 『もし、もういちど生まれ変わって親子になれたら、今度こそいっぱい親孝行するよ…』毎日、母親の遺影を見ながらお線香をあげては、そう心の中で語りかけている。



 ~そして、だいたい1時間か、遅いときは2時間近くかかって薬局から電話が来るので、薬局へ戻って清算して薬を貰って車に戻り、ようやくこれで帰路となる。この繰り返しを、私ひとりだけでず~っと何年もやって来た。だいたい6年くらいか。私の体調が悪かろうが、寝不足だろうが、一度たりとも遅刻もキャンセルもしていない。

 そしてまた、車で40分くらいの道のりを帰るのだが、今度はスーパーに寄って家族みんなのオカズやお惣菜などを買わなくてはいけない。母親と一緒の帰りに【長崎ちゃんぽん】や【くら寿司】を食べたことも懐かしい良い思い出だ。

 スーパーの横に併設してある1000円カットの散髪にも、母親の手を引いて一緒に入った。母親を車で待たせ、天ぷら、コロッケ、餃子、メンチカツ、お寿司、お刺身、サラダ~など、毎回違うバリエーションを考えては家族の分をいっぱい買って、母親がいる車へ戻る。



 ~後部座席のドアを開けて『お待ちどぉ~』と言うと、母親はいつも『はぁ~い』と優しく笑う。いつもいつも母親は誰に対しても文句ひとつ言わず、本当に優しくて心の綺麗な人だった。私もそうありたい。母親のように、いつ誰に対しても笑顔で優しくなれるように。

 きっと、きっと母親は天国から私たち家族を優しく見守ってくれていると思うが、なにぶん母を亡くしたダメージが私の中ではとても大きく、心の中に大きな穴が開いてしまったかのような虚無感と同時に、『早く楽になりたい…母の傍へ逝きたい…』ともいつも思ってしまう。

~ いったいいつまで、この現実世界で苦労しながら生きて行かねばならないのだろう。


【Paramore: Decode [OFFICIAL VIDEO] 】


 母親が亡くなる2年前くらいは~近所の商店街の近くの一軒家で運営していたアットホームなデイサービスに1年近く、週2日で迎えに来てもらって通った。私は、母親が他人に手荒に扱われては困るので、父親を連れて見学に行ったことがある。

 そのデイサービスでは催し物や花見などもたくさんやって楽しませてくれたうえに母親の誕生日にはケーキまでご馳走してくれ、嬉しそうに食べる母親の写真さえ撮ってくれていた。



 ~ちなみに、私がまた肺炎にかかったは、ここのデイサービスに勤めているオバちゃん2人が、初めて自宅に訪れて来た夜からである。母親が通うにあたって、注意して欲しい点や要望などを伝えたのだが、その夜中に一気に強烈な高熱が出て、なんと39℃にまであがった。

 私は人生で何度も高熱を出してるから、39℃以上の高熱でも普通に運転できる。過去、41℃の高熱でも自分で車を運転して自力で病院へ行ったこともあるし、あまりの高熱でも普通にしてるため、病院の看護師さんなどに驚かれる。


 だから大丈夫だろうと思っていた矢先、凄まじい咳で呼吸困難になり、熱の上がり方があまりにも急激で、めったに出ない咳がヤバかったため、インフルエンザを移されたかも~と思ったのと、夜中だったので救急車を呼んだ。

 ちなみに昔、インフルエンザだったのに5日も病院に行かずに死にそうになったこともある。



 ~結局、3ヶ所の病院を巡っても薬は効かず、ホントに死ぬ寸前のよう。とにかく少しでも動くと、ず~と止まらない猛烈な咳が出て呼吸困難になる。呼吸が苦しくて涙が流れるなど、普通の人は味わったことが無いであろう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

①自分が動かなければ病院には行けない。病院に行かねば治らない。

 ↓↓↓

②しかし、動くと猛烈に激しい咳が止まらなくなって呼吸困難になる。

 ↓↓↓

③死ぬ思いで病院に行っても肺炎は見逃され、貰った薬は効かない。

 ~以下、③→①へ戻る無限ループのまま3週間苦しみ、死にそうになった!

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ず~っと39℃の高熱と激しい咳で体力はもうほとんど限界。3週間近く苦しんで、仕方なく彼女に付き添ってもらって母親の病院へ。

 レントゲンで【肺炎】と診断されて、即日緊急入院となってしまった。辛いにのまた自宅へ帰り、父親に説明して荷物をまとめ、車でまた病院へ戻って~そのまま即日緊急入院1週間である。



 人生2回目の肺炎だが、高齢者が最期は肺炎を患って死ぬのがよく分かる。私は過去2回、インフルエンザにかかっていて注射と薬で治した。インフルエンザは特に、もの凄い高熱と猛烈な身体のダルさが特徴なのだが、肺炎の特徴はとにかく一番に咳。次に高熱がくる。身体のダルさは少しだけ。


 インフルエンザみたいに猛烈な身体のダルさは無いからまだ動けるのだが、動くと猛烈な咳がず~っと止まらない。しかも、薬が効かなければ、寝ているだけでも猛烈な咳は止まらない。だから呼吸困難になる。~結果、この辛さに高齢者は耐えられないから死んでしまうのだ。



 ~インフルエンザは予防注射や免疫注射があるので、『インフルエンザで亡くなった』~という話はあまり効かないが、TVのCMでも流れるように日本人の死因第3位である肺炎は、かかっただけでも命の危険があるということを、ぜひ覚えておいてほしい。

 中学生のときの肺炎は、入院はしなかったが1ヶ月も学校を休んで自宅安静。毎日一人、天井の板に残っている大工さんがつけた手形を眺めて寝ていた。(※ちなみに、この天井の手形って心霊現象でもなんでもなく、大工さんの手についていた脂汗のせいなんだよね)



 ~肺炎の話が長くなってしまったが、この肺炎の原因の菌、絶対にあのデイサービスの人が持って来たとしか考えられない。何日も外出していなかったし、家族の間ではぜんぜん平気だっだのだから。

 この1件以来、どこに行くにしても絶対にマスクをするようになった。しかも私、生まれてすぐに気管支炎を患い、1ヶ月近くも入院していたことを父親から聞いている。だから母親も一緒に入院していて、父親は区役所が終わると病院へ来てくれて、病院の病室で親子3人で就寝、そのまま父親は区役所へ出勤して行ったそうだ。

 日本人の死因第3位の肺炎だか、最後は肺炎を併発して亡くなる人が多い。~この肺炎の恐ろしさは、かかった人間にしか本当に分からない!だから、この文章を読んでくれた人は、外出時は必ずマスクをして欲しい。まぁ~結局、母親はその肺炎球菌を持って来たデイサービスへ通うことになったが…




 ~話を戻すが、なにより私が母親のことで幾つも心配していたのは、デイサービスや介護サービスの他人による人為的なミスでの壮絶死、私と父親が【前立腺癌】の治療に行っている間に体調が急変しての死などだった。

 また、社交的ではなく、人づきあいが苦手な母親を大勢の中に置いておくのは私としてひじょうに気が引けることでもあったし、度々テレビのニュースになる介護施設やデイサービスの暴力事件などもあって、私の気が休まることはなかった。



 ~その母親の体力も目にみえて落ち、デイサービスに通うのさえ困難になったため、ずっとお世話になっていた市の介護マネージャーと話して、母親のデイサービス通いは止めてもらった。それからは自宅で療養。

 毎日のように介護ヘルパーさんが来てくれて、母親の食事や服薬、オムツの交換や入浴など~午前と夕方に来てやってくれた。最期の写真となったのは、そのデイサービスの家の庭にあるガーデンで、多くの花に囲まれて嬉しそうに笑う母親の姿で、その笑顔を遺影にしてもらった。



 ~2016年2月。診察で見てもらった時に、あまりにも母親の体力が落ちていて、車イスに乗っていても辛そうだったため、先生が初めて在宅医療のことを薦めてくれた。

 父親と相談しながら私がすべて間に入って話をして、4月にはその話が進み、最後の診察となった6月までに、市のケアマネージャーが間に入ってくれ、訪問診察の為の担当病院や薬を処方してくれる薬局など~それらすべてが決まった。



 ~その市のケアマネージャーの女性は、市役所に母親の介護の話を相談してからずっと担当になってくれていて、母のデイサービス通いの時から~毎日の訪問介護のヘルパーさんの会社も決めてくれていた。

 最後の自宅での訪問医療のときには、私と一緒に近くのクリニックで話をしてくれて、そのクリニックが母親の訪問医療の担当となった。24時間対応の緊急連絡までやっており、母親が亡くなる最後の3日間まで、そのクリニックはきちんと対応対処や処置をしてくれた。

 毎月の料金の引き落とし口座の書類や介護ヘルパーや訪問医療の必要書類なども、私が父親の代わりにすべて書いて、そのケアマネージャーに提出した。【市役所⇔ケアマネージャー⇔介護ヘルパー会社および訪問医療の病院】~こんな感じで、すべて間に入って上手くやってくれていた。



 ~最後のほうは母親の認知症も少し進み、自分でウンチまみれのオムツまで外してしまう事があった。あるとき、彼女と外出して夜に帰宅したら、家中がウンコ臭い。父親はほとんど目が悪いために原因が分からずにいた…@@;;

 時間は20時半頃だった。母親の部屋に入ったら、なんと、自分の枕の横にウンチまみれのオムツがそのまま置いてあるではないかっ!!


 父親に説明して、すぐさま全部の窓を開けて扇風機まで使って臭いを排出、私はゴム手袋をしてオムツを片付け、ウンチがついたベッドシーツを交換、きちんと着替えさせてあげた。しかし、母親の手を見たらウンチまみれだ。

 母親は歩けなかったので仕方なく、アルコール除菌スプレーを何度もかけながら、母親の両手をウエットティッシュで綺麗にしてあげた。



 ~しかし、こうなった原因が分からないままだった。母親に聞いても答えてくれない。認知症が少し進んでしまっているようだった。

 私はてっきり、介護ヘルパーの人がオムツを片付け忘れ、それを母親がどかそうと触ってしまったのだと思ってしまい、すぐに、初めからお世話になっていたケアマネージャーに電話して状況を話した。



 しかし、その方が言うには、『ヘルパーさんはそんなことしないですよ~』との答え。翌朝、その介護の責任者の女性と介護ヘルパーの女性がやって来たので話をした。私はしっかりと話をして、きっちりやってもらわないと衛生的にも悪いと怒ってしまった。

 私がずっと前から心配していた~【他人による母親の壮絶死】がいつも頭にあったのだし、父親はほとんど目が見えなくて何も言えないのだから、長男の私がしっかりするのは当然だ。介護の人たちはそのまま静かに話を聞いてくれたが、ちょっと困り顔をさせてしまった。



 ~そのまま何日か無事に過ぎたと思ったら、また同じことが起こったではないか!!

結局、また私がそれらを片付けて、前回と同じようにすべて綺麗にしてあげた。それで、またケアマネージャーに電話をして相談したら、介護ヘルパーの方が【ツナギ】を持って来てくれた。


 あの整備工場とかで整備士のお兄さんたちが着ているのと同じようなやつで、体の前がチャックになってて上まで閉めたら、首の部分が特殊な止めかたになっていた。

 私でも開け方が分からなくなるほどだったが、その【ツナギ】のお陰で、母親の枕の横にウンチまみれのオムツを見ることは二度と無くなった。~やはり、気持ち悪くて母親みずから自分でオムツを取ってしまっていたようだ。



 ~ちょっと強めの口調で介護の人たちに怒ってしまったことを謝罪しておいた。母親が自分でその原因を話せればこんな事にはなってなかったのだが、認知症が少し進んでしまったせいか、母親みずからは分かっていないようだった。

 しかし認知症といってもまだまた初期。自分の名前を呼ばれれば答えるし、普通に会話もできた。ただ、そのオムツのことだけは、自分でも良く分かっていなかったようだ。ただ気持ち悪かっただけという感覚だけで~無意識に外してしまったのだろうか…。。


【[MMD] Sayonara Angela Balzac】


 ~そして、最後の診察予約の6月。私一人で病院に行き、主治医にそれらすべてを話し、母親の今までのお世話になった感謝を丁寧に伝えて帰って来た。

 さすがにこの時ばかりは涙がこぼれそうになったが~なんとか耐えて診察室を出た。長かった母親の病院通い、最後は私自身がきちんと締めくくって来た。



 母親と私、たった2人だけで6年以上通った思い出がたくさん残っている病院。母親が入院した時も、そして毎回の通院の時も、母親の手を握って一緒に歩いた。

 WIN『ねぇ~お母さん…、オレ…ちゃんと親孝行できてるかな?…』~いつか、そう聞いてみたいと思ったことがあったが結局、最後まで聞けなかった。。



 母親が亡くなる3日前の金曜の夜、呼吸が苦しいと言うので訪問診療の担当の病院に緊急電話をかけて話をしたら、ほんの数時間後には大きい酸素吸入の機械まで持って来てくれた。

 次の日の土曜の朝、いつもの訪問介護の人が様子を見に来てくれたとき、血圧も下がっているし、担当医がいる掛かりつけの病院に連絡を取って入院させるかどうかを問われた。



 ~しかし土曜日だったこともあり、いつもの主治医はいないし、なにより、あまりにも大きくて重い酸素の機械を運びながら、体力が落ちて寝たきりの母を起こして連れて行くのは、私一人では無理に思えた。

 しかも、たとえ入院させたとしても、弱りきって衰弱していた母の声が看護師に届くのか、緊急ブザーを押せるのか、看護師は24時間ずっと診ててくれるのか~など不安の種はいくつもあり、入院中の看護師やヘルパーによる人為的なミスでの壮絶死も心配の種だった。



 ~だから、主治医がいる月曜の朝一に連絡を入れて入院させようと考え、月曜の朝からすぐに動けるように私は、酸素ボンベを常備しつつ、寝ながら運んでくれる介護タクシーを片っ端から調べて紙に記載していった。

 ついでに、母親が入院した時に私もずっと傍に入られるよう、私自身も自分の荷物をまとめて、母親と一緒に病院に泊まる準備さえしておいた。



 ~その夜、いつもの訪問介護の人たちが3人くらい来て、母親のオムツを交換、食事もさせようとヘルパーの人が、母親の背中から手を回して無理に起こして壁にもたれさしたとき、なんていうか、そのヘルパーさんの母の扱いに少しムカッときた。

 なぜなら、母親は真っ青な顔をして本当に辛そうだったからだ。結局、食べられないので寝たのだが。



 ~その人たちが帰ったあと、母親の手を握ってあげたとき、とても辛そうな声で、~『もういい…もういいよぉ…』~と私の繋いでいる手を振りながら私に言った。
訪問介護の人たちの扱いで、とても疲れてしまったのを私は悟った。

 だから、強く手を握り返して、『うんうん、もう帰ったから大丈夫だよぉ。ゆっくり寝ていいからね』と言ってあげた。



 ~次の日の日曜、母親の最後日。
(実際亡くなったのは月曜の早朝)

8月の終わりだがまだ残暑は続いており、母親のいる部屋に頻繁に様子を見に下りていた。呼吸は少し苦しそうだったが、なんとか大丈夫そうだった。

 夜遅くになって、私が寝不足で辛かったのも知っていた父親が、 『もういいよ~お兄ちゃん。オレがついて横で寝るから、自分の部屋で休んで~』っと優しく言ってくれた。



 ~夜、12時過ぎていただろうか。部屋の冷房の温度は大丈夫かな~と思い、母親と父親が寝ている部屋に入った。真っ暗だったが、『だいじょうぶ?寒くなぁ~い?』と聞いたら、父親は大丈夫と言った。

 母親からの返事は無かったが、寝てるのだから起こすのは悪いと思って、そのまま部屋に戻った。ちなみに、前出のとおり父親はほとんど目が見えないので、エアコンのリモコンの表示も、母親の表情も分からない。

 なにせ、千円札と万札の違いも分からなければ、お札やゴミが落ちていたって分からないのだから。



 ~翌朝、月曜の朝7時ごろ。

2階の私の部屋まで父親が上がって来て、ドアをノックした音で起こされた。『お兄ちゃん、どうもお母さんが息してないみたいなんだけど~ちょっと見てくれるかい』


 すくさま下の母親の部屋へ下りて行き、『お母さん!』と呼びかけたが返事はなく、安らかな顔をしたまま亡くなっていた。半分、微笑んでいるようにも見えた。

 母親の顔も手もすっかり冷たくなっており、腕を軽く伸ばし、ベッドの横のベッドガードに指を絡ませたまま、亡くなっていた。~土曜の夜、手を握ってあげながら聞いた声が母親の最後の言葉であった…



 ~指を解いてあげたら、自然と涙がこぼれ落ちた。父親は涙声で、『はぁ~駄目だったかぁ~…』と静かに言った。すぐに訪問医療の担当病院に緊急の電話をかけたら、先生とナースが来てくれて死亡確認。死因は【呼吸不全】だった。

 死亡推定時刻は先生いわく、3時間前くらいの早朝とのこと。そのあと、市の介護マネージャーやいつもの訪問介護の会社の人たちも来て、今度は葬儀がどうたらの話になって慌しかった。



 ~それから母の火葬までの1週間の間に、母親の健康保険を持って市役所へ行ったり、父親と一緒に年金事務所へ行って、母親が死去したことを話して手続きしたりしたが、しかしなんだか、母親が生きて来た足跡を消されているようで、とても悲しかった。

 火葬までは葬儀業者の人が毎日、母の身体に添えてあるドライアイスを交換に来た。残暑はまだ残っており、母親の部屋は冷房をかけて冷やしていた。

 そんな母親の横で私は毎夜、毎日何時間も鼻水と涙を垂れ流して男泣きしていたが、そんな思いを察してくれているかのように、母の死に顔は綺麗に微笑んでくれていた。思い出が走馬灯のように蘇り、~この時ほど【己の無力さ】を感じたことはない。



 ~母が亡くなって数日後、母が入る真っ白でとても綺麗な棺が届いた。その翌日だか翌々日だかに、おくりびと(納棺師)の女性が葬儀業者の人と来てくれた。

そして、ものの20分たらずで、綺麗に死に装束に着替えさせられていて、綺麗にお化粧までしてくれていた。父親と一緒に履物を入れてあげ、三途の川を渡るお金(六文銭)も渡してあげた。



 ~その、おくりびと(納棺師)の女性が途中でこう言ってくれた。

 『お母様、とてもお綺麗ですね。

 それとですね、亡くなってからもう何日も経つのに お母様の指(手)はまだとても柔らかいじゃないですか。


 亡くなってから死後硬直してガチガチに固まってしまう方がほとんどなんですが、お母様のような状態の方は、【人生をまっとうした人】って言われているんですよ』と。

~それも聞いた途端、隣に座っていた父親が泣いた。


 
 ~火葬の日は朝からものすごく快晴で雲ひとつなく、まるで神様が、『●●さん(母親)、よく頑張りましたね。ご苦労様でした。天国までご案内しますね。ほら、ご家族の方が見送ってくれていますよ』っと言ってくれているようだった。~母親が、青空の中で微笑んでくれているかのような気持ち良い9月の快晴だった。

 『土曜中に連れて入っていればなぁ~』~と今でも私は後悔してるが、前出のとおり、病院での心配ごとも父親にも話して納得していてくれてた為、父親から母親の死について責められたことは1度たりともない。


 ~逆に、『目がほとんど見えないオレの代わりに良くやってくれたね~』~と、今でも労ってくれている。しかし結局、あの判断が裏目に出てしまったことは私自身の責任による最大のミスだと、母親の死去から1年以上経った今でも後悔している。

 『(あの時、土曜に早急に入院させていたら、もしかしたら助かったかも知れない…)』~そんな罪悪感が今でも私を蝕んでいる。



 ~しかし、私は今でも毎日考える。

 【家族のみんながいない、家から離れた病院で独り寂しく逝くか、それとも、夫婦2人で一生懸命建てた愛する家族のいる家で逝くか】


私自身が自分の死の間際に選ぶとしたら、絶対に後者である。同じことを父親に話したら、父親も私と同じだった。

 だから、病院の寂しい病室でたった一人で逝くよりも、夫婦二人で一生懸命建てた我が家で、そんな最愛の父親と夫婦2人きり、人生最後の夜に一緒に寝たまま亡くなったのは、もしかしたら、神様が母親に与えてくれた人生最後の幸せのプレゼントなのかも知れない。



 ~私自身これでも、【長男としての使命】だと思って頑張って来たつもりだし、私は若い時に両親には本当に迷惑をかけたので、こうして両親の老後に少しでも親孝行できているのは嬉しいのだが、とにかく母親にはもっと幸せを与えてあげたかったし、もっと長生きして欲しかったと今さらながら物凄く後悔している。

 しかし、母親はなんというか~体調がガクッと落ちてから亡くなるまで早かった。2月に急激に体調が落ち、4月にはもう在宅医療、そして8月の末に死去だが、亡くなる3日前の金曜に呼吸が苦しいと言い出し、月曜の早朝に亡くなった為、本人が本当に辛かったのは3日間くらいだし、しかもほとんどは寝ていた。



 ~だから、癌などで抗癌剤治療のあげくに副作用で悶え苦しみながら死ぬよりかは、言い方は良くはないが、安らかな最期を迎えられたのは運が良かったとも言える。

 早すぎる死だからこそ、ほんの数年間ではあったけれど、母親の手を引いて、いつも二人だけでの通院が今でも昨日のことのように鮮明に思い出として残っているし、そして、それを今でも毎日思い出してしまうので必然と涙が出ては止まらない。



 ~こうしてブログに残しておくことでその軌跡を見直すこともできるし、半永久的に残る。記事にすることで読んでくれた誰かの参考にもなるかも知れないし、決して、誰かに慰めてもらいたくてアップしたのではないのは分かって欲しい。

 テキストにしてPC内に保存しておいても、トラブルでぜんぶ消える可能性もある。どんなに身近な人間に慰めてもらっても私の後悔は消えることはなく、私自身が死んで母親と再会でき、そこで許してもらえることだけがこの後悔を消せる。



 ~ワールドメイトで神様ごとを長く教わり、いろんな証を体験して来た私にとって、因縁や因果、現世での御魂磨きや宿命や天命、死や輪廻転生などとは切れない縁。だから1年以上経った今でもこうして母親の死を引きずり、詳しい内容を追記したのである。

 今さら『たられば』で後悔しても過去は戻らないし、変えられないはの分かっている。~だから私が死んだら、あの世で母親にいっぱい謝ろうと思う。。



 ~そのあと、無事に49日法要も済ませ、現在でも毎日お線香をあげているが、私の感じるところでは、きちんとあの世に上がって行ったのをすごく感じる。もし、母親が成仏していないならば真っ先に頼ってくるのは私のはずだし、私は霊的に敏感なので、頻繁に金縛りなどが起きていても不思議ではない。

 しかし、母親が亡くなってから現在までもそういった心霊現象の類もいっさい無く、下の母親の部屋に入ってお線香をあげていても、部屋の【気】がいいのを感じる。


 ~地縛霊のように現世に留まっている重くておぞましい感じはまったくなく、なんだがとてもスッキリしていて、心地よい場所に母親がいるのを感じるのだ。

 陽の光が眩しく照らしている丘、綺麗な花や草木がたくさん咲いている場所に居るように感じ、しかも、昔に亡くなった愛犬のナナと一緒に遊んでいる光景まで脳裏に浮かぶ。きっと、神様がきちんと連れて行ってくれたのだと思う。



 私はいつも母親の傍にいてあげられたのは良かったと思っているが、最後まで、育ててもらった感謝の気持ちを伝えられなかったことをとても悔やんでいる。

 もし、あなたの親が健在なら、少しでも良い思い出を一緒に作ってあげて欲しいし、今日まで育ててもらった感謝の言葉などもなるべく伝えてあげて欲しい。亡くなってからでは、会いたい話したいと思ってもその願いは叶わないのだから…

 いつの日か、またあの世で母親と再会できることを信じているが、その時にまた微笑んでくれたら、私の後悔も苦労も悲しみもすべて吹き飛ぶはずだ。



 ~人間、年をとると涙もろくなって困るが、私は昔から悲しい映画を見るだけでも涙がこぼれてしまう弱点がある。あの映画『君の名は。』の新海誠監督の失恋映画『秒速5センチメートル』。この【【男を鬱にさせる映画】】で何回泣いたことか…orz

 もちろん、他にも涙が流れた映画は数多くある。しかし昔から、彼女と悲しい映画を一緒に見ても、私が涙を流しても、彼女は平然と涙ひとつ流さないのはどういうことなのか…。

 私が弱くて彼女が強いのか、それとも彼女が変で私が正常なのか、これだけは現在でも変わりなく、今だに本当に理解に苦しむ事柄である…。



 ~ちなみに余談だが、母親や父親を病院に連れて行ってる時には、心霊体験はない。…というか、まだ【薬寿師】のときは金縛りや霊障に悩まされることが多かったのが、【世界一密教師】になってからは、金縛りや悪夢などの霊障はすっかり減った。

 もしかしたら、私が気づいてないだけかも知れないが、昔は病院など気の悪い場所へ行くと必ず何かが憑いて来て、その日寝た時にはしょっちゅう金縛りや怖くて強烈な悪夢に悩まされていた。



 ~ちなみに、私の全身蕁麻疹では初めの3年半くらいアレグラ錠を飲み続け、次の最後の1年半は父親を前立腺癌の放射線治療に連れて行った同じ大学病院で、診察のたびに点滴をしてもらい、アレロック錠の処方をしてもらっていた。

 だから、自分が全身蕁麻疹で長く通院した大学病院で、父親が前立腺癌の放射線治療をしに通ったのも~なんだか不思議な縁に感じるし、なんといっても自分が通った皮膚科と父親が前立腺癌で通った泌尿器科が2階の同じ待合ホールで診察室が向かい合っているのも凄い偶然だった。



 ~そして、この全身蕁麻疹が発症したために、ワールドメイトの九頭龍師の研修会に参加できなかったのも今だに覚えている。全身蕁麻疹が赤い鱗状の模様のように皮膚に出てきたこともたくさんあった。

 もしかしたら、九頭龍師になるにはまだ早いとの警告だったのかも知れない。結局、全身蕁麻疹が完治するまでは5年以上かかったし、今でも、もしもの時の為にバッグの中にはアレロック錠とアレグラ錠が入っている。



 …で、話が心霊体験から逸れてしてしまっていたが、なにが言いたかったかというと、その全身蕁麻疹の診察の為に朝一で行き、診察前に入ったトイレで【背後を何かが通った気配を感じた】のが、父親を連れて前立腺癌の治療に通った~この大学病院だったということである。~このブログの過去記事の中に記載してあるので読んでみて欲しい。

 気持ちが張っているときは身体の周りにバリアが張られるのだろうか、それとも【世界一密教師】の神々様が護ってくれているからかは分からない。(※ワールドメイトの会員じゃない人は~なに言ってるか分からなくてスイマセン)


 ~母親や父親の付き添いで、それぞれの病院で心霊体験をしたことは私は無いが、母親が入院時、『ベッドの脇に知らない人が立ってたよぉ』~と怖がっていた事はあった。

 WIN『へぇ~そう…(お母さんそれ、見回りに来る看護師さんかゴミ掃除の人だよ)』


【Thousand Foot Krutch - War Of Change (Sub Español)】


 ~そして、今年2017年。

2月現在の私といえば、去年の年末に右足の親指を強打。2日間あまりの痛さに悶絶していたが、運悪く土日にあたってしまい近所の病院は週末でお休み。

 月曜になってようやく隣の市の評判の良い整形外科に行ったところ、粉砕に近い骨折の重症で全治3ヵ月以上と診断された…orz



画像が小さくて分かりにくいが、関節の部分から両方に完全に割れている。
(モロすぎるだろ。骨粗鬆症かよ!!)

 漢字の『人』のように両方に割れ、特に右側部分が酷く、ナナメ下に向かって完全に松竹割りのように裂けてしまっているのだ。この割れた骨がズレてしまうと手術が必要なため、毎回診察前にレントゲンを撮って確認しているのだと言われた。



 ~いちばん隙間が開いている部分が完全に埋まるのに、最低でも半年以上はかかるという。上の部分と下の部分がくっつけば、真ん中も徐々に骨ができてくるとのこと。すぐさま固定されて包帯を巻かれたが、通院に車が必要なためにギプスは拒否。

 サンダルだけでなんとか運転、アクセルはなんとか緩く踏んでいれば大丈夫だが、信号待ちなどでブルーキを踏み続けるのが痛くて悶絶するレベルであった。



 ~主治医からは、『とにかく、ぶつけないように。他人から踏まれないように!』っとキツく言われているが、実は寝るのが一番怖いくらいだ。

なにしろベッドの右は壁、左はテレビラックの上に置いてある頑丈な鉄製の金庫である。寝ぼけて蹴飛ばしてしまったら割れた骨がズレて悶絶レベルの激痛、しかも割れた骨がズレてしまったら手術確定となってしまうのだから、それだけは一番気をつけなければいけない。

 だから毛布に右足を上手く包んで、少しくらい寝ぼけて蹴ってもベッドから飛び出さないように注意してある。通院頻度は、初回⇒1週間後⇒2週間⇒(年越し)⇒2週間後⇒3週間後⇒~となっていて、来週13日(月)に診察予約が入っていて、今は受傷からちょうど2ヶ月くらいだ。



 ~右目の網膜剥離手術、右手首の腱鞘炎手術、右手首の腱鞘炎後遺症の再手術、右手首の靭帯(TFCC)2本断裂手術~に続き、またもや右半身の怪我である。

2016年8月29日に母親が亡くなってから約3ヶ月ちょいに骨折。そして、せっかく私のラッキーナンバーである【17】が付く2017年、その年始に人生初の骨折中とは~運が良いのか悪いのか…

 おかげで年始は彼女と初詣にも行けずに療養である…今もね…orzあなたも怪我や病気にはじゅうぶん気をつけてください!



 2月13日の診察で、やっと通院を終了しても良いとの許可を頂いた。ただ、受傷部分はまだ紫色が残っていて少し腫れている。走ったり、ぶつけないように注意しながら完治を目指してくださいとのこと。

 2ヶ月も固定していた為に、まるっきり曲がらない。

…というか、怖くて本気で曲げることができない~orz
念のため、包帯だけはまだ巻いてもらった。

 ~ということで遅れましたが、
昨年もこのブログをご愛読くださいまして、誠にありがとうございました!


 ━━2017年10月22日更新分━━━━

 ~その後、現在の親指の完治状態であるが、骨折が治ってからも、曲げるリハビリをしなかったため、この親指の真ん中の大きな関節はもう曲がらなくなってしまった…orz

時たま猛烈にズキズキ痛む時があるが。何が原因なのかサッパリ分からない。なにより、また身体の右半身に後遺症を負ってしまったことがショックである。


 まぁしかし、足の親指の真ん中の関節が曲がらなくてもこれといって不便さもない。だから今さらリハビリせずとも、もう一生この曲がらない状態でいいやと諦めている。

ちなみに、その評判の良かった整形外科はリハビリはやっていなかった。…さらば…正常な親指よ…
関連記事

★この記事へのコメントお願いしま~す♪★

 (※当ブログは通常の右クリックではコピペできないようにしてありますので、コメント記入の際には、まずメモ帳などに文章を作ってからコピーした後、【Ctrl + V】または【SHIFT+INS(insert)】でコメント欄に貼り付けしてくださいネ)

トラックバック

URL :

WINプロフ (=゚ω゚)ノよぅ

写真は美ヶ原高原美術館の野外にあるサモトラケのニケ【WINの原点の場所】すべてはここから始まった( ´∀`)つ

★誕生日:1971/4/25(尾崎豊の死去、JR福知山線脱線事故、ネパール大地震、ちなみに聖者サイババの死去は2011年4月24日)
A型 二黒土星 亥 牡牛座 177cm 8●kg(子豚)

ワールドメイト会員歴25年目[平成7年11月17日初救霊&入会]資格:普通自動車一種&二種、古物商、フォークリフト、薬寿師、世界一密教師、オマケで土偶神化伝(邪気邪霊や生霊や呪いを跳ね返せる神法)
━━━━━━━━━━━
★特技:数字シンクロニシティ[ユングが提唱した概念で"意味のある偶然の一致"の事] Wikiリンク⇒『シンクロニシティ』⇒『カール・グスタフ・ユング

これまた偶然にも4/25 乃木坂46 20thシングル発売『シンクロニシティ CD+DVD』(=゚ω゚) ━━━━━━━━━━━
★ちなみにTOKIO山口達也の不祥事が一斉に報道されたのも4/25である。私が【死にGO(4/25)】と言うように4/25はなぜか不吉な事柄が多く起きる。

ちなみに有名プロレスラーの破壊王[橋本真也]が急死したのは平成17年7月11日(40歳没)「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」が理念。

石原裕次郎】の死去は1987年7月17日(52歳没)
阪神淡路大震災は1995年
1月17日

和魂-カテゴリー
深見東州最強セレクション
和魂-推奨リンク
和魂-最新記事 15件
人気記事ランキング
( ´∀`)つ愛愛愛)Д`)グシャ
▼和魂-月別アーカイブ▼
和魂-最新コメント 15件
( ^ω^)よろしくだお
当サイトはリンクフリーですが、記事の無断転用複製販売を固く禁ずる。[VIPルーム]
copyright©ワールドメイト和魂⇒[お問い合わせはコチラ]