しかし結局、8回もエベレストに挑戦しながら1度も登頂することなく、8連敗を喫した直後の5月21日にキャンプ3から下山中に滑落死した。35歳没。人は彼をこう呼ぶ。「プロ下山家」と…

あまりに失敗ばかりしている、この男のことを知ってみたかった。彼が抱えていた夢。飲み込まれた闇。プレッシャーと闘いながらも挑戦を続けたエベレスト。この記事では彼の真実と、わたしなりの感想を述べてみたい。
世界最高峰エベレストは「北壁」「東壁」「南壁」の三面から成り、南のネパール側から南東稜を登るのが「ノーマル・ルート」と呼ばれ、一般的なルートになっている。
必須となるのがエベレストへの入山料だ。2019年の数字では、ネパール側から春に登る場合は1人につき、およそ120万円となり、秋だと半額のおよそ60万円となる。

一般の登山者が登るには大金を払ってツアーに参加するのが恒例だが、2019年では49日間で 780万円もの料金がかかる。
入山料やルート使用料、シェルパやスタッフのギャラ、テント代やゴミ処理代、酸素ボンベの使用料などで、東京~カトマンズの往復航空券は約16万円で別途となり、保険料は含まれてないそうだ。
栗城さんは1982年6月9日、北海道南部の瀬棚郡 今金町に生まれ、町の中心部にある時計と眼鏡の店が生家である。

父親の敏雄さんには障害があり、身長も140cmほどしかない。その父親が40歳のときに 史多さんが誕生する。
母親の民子さんは身体が弱くて病気がちだったが、史多さんが中学から高校に上がるころに民子さんの肺に癌が見つかり、高校2年の春には痩せ細って抗癌剤の影響で髪は抜け落ちていたそうだ。
~ホスピスで緩和しながら過ごす選択肢もあったが、民子さんは痛みにも弱音を吐かずに家族のいる地元を選び、夏の7月5日に息を引き取った。
史多さんは天に昇る母に3つのことを誓った。「一生懸命に生きる」「弱音を吐かない」「最期に「ありがとう」と言える人生を送る」と。

栗城さんが登山を始めたのは札幌の隣、江別市にある酪農学園大学の登山部である。札幌国際大学では空手部だった栗城さんは、学友たちに山の話はほとんどしていない。
その札幌国際大学時代、栗城さんは22歳の誕生日をマッキンリーの標高4330mで迎えた。登り始めて16日目、ついにマッキンリー山頂に立った。
北米大陸最高峰のマッキンリー(標高6190m)は別名「デナリ山」と呼ばれていたが、公式名称を「デナリ」に改名した。日本が誇る冒険家「
植村直己」さんが遭難した山だ。

冒険家「
植村直己」さんは日本人で初めて
世界最高峰エベレスト(標高8848m)に登頂した偉大な人である。
その「
植村直己」さんが遭難した山に栗城さんは登頂を果たしたが、「
植村直己」は厳冬期に登って遭難した。夏と冬では難易度がまったく違うそうだ。
栗城さんの人生は、周囲が「奇跡」と呼んだマッキンリー登頂がなかったら、まったく違うものとなっていただろう。カメラを持って行ったのは登頂した証拠を残すためだったと言う。

栗城さんが自撮りする理由は『苦労して登っている姿を共有して欲しいから』と語った。その自撮り登山が栗城さんの代名詞になった。
大学を卒業後、栗城さんは「プロ登山家」となり、各大陸の最高峰を順調に踏破していった。その栗城さんが初めてヒマラヤを体験したのは2007年の5月に「チョ・オユー(標高8221m)」を登頂した時である。
そして8月に自身の会社である「株式会社たお」を設立。12月に南極最高峰の「ヴィンソン・マシフ(標高4892m)」にリベンジし、残るは「エベレスト」となり、ここから栗城さんの「エベレスト劇場」が始まった。

栗城さんはアチコチの企業に出向いて資金調達を計ったが、その指南役となったのは札幌国際大学の「和田忠久」教授である。
栗城さんに登頂計画書を作らせ、病院の理事長から企業の社長、セイコーマートやニトリの社長と直々に会って資金援助を申し出た。たちまち話題となり、講演会まで開くようになる。
和田教授いわく、栗城さんには「起業家」としての才覚があったという。純粋な登山家からすれば、若い栗城さんが「登山家」として資金を集めるのは好まれない意見のほうが多かったという。

登山家の凄さは一般人には分かりずらい。体力、スタミナ、精神力、状況判断、そしていざ危機に陥った時に発揮されるアウトドアの知識。生と死の狭間で命を懸けて生きている。
登攀(とうはん)の「攀(よ)じる」という言葉が表すとおり、登山家は手と足だけではなく、全身を岩や雪の壁に擦りつけるように攀じ登っていく。
標高7500mを超えると酸素の量は地上の3分の1となり、そこにいるだけで体力を消耗し、脳には酸素がいかなくなってくる。いわゆる「デス・ゾーン (死の領域)」と言われる所以である。

そして、栗城さんを知る複数の関係者はこう話す。『技術はない。体力も並み。そのわりにはパフォーマンスが過ぎる』と。
ヒマラヤを何度も経験している世界中の登山家からしたら、栗城さんの自撮りしながら登るという行為はパフォーマンスにしか過ぎず、山を舐めきっているとも言われる。
しかし、それまで誰も成し遂げたことがない「冒険の共有」を謳ったことにより共感を得て、講演会でも多くの資金を集めることになった。もはや登山家というより起業家、ビジネスマンのようだ。

栗城さんは2004年のマッキンリーに始まり、2018年に最後のエベレストに至るまで、訓練も含めると、のべ24回もの海外遠征を行っている。
海外遠征の登山中に亡くなった日本人は意外に多い。前出の冒険家「
植村直己」さんはもちろん、エベレストに登頂を果たしている日本山岳会のメンバーやベテラン登山家もいる。
惜しくも雪崩に巻き込まれて日本の登山家が3人いっぺんに亡くなったのは、ヒマラヤの「クーラカンリ(標高7538m)」だった。簡単に「登山」と言っても、やはり「命賭け」なのが分かって頂けると思う。

ヒマラヤでは冬が近づくと「ジェット・ストリーム」と呼ばれる強い偏西風が吹き荒れる。雪が吹き飛ばされて猛スピードで岩の上を流れ、時には「ホワイトアウト」で白一色なって視界さえ無くなる。
その栗城さんは8回目のエベレストで滑落、その時に頭を強打したのだろう。遺体は頭蓋骨が一部割れ、顔は血だらけだったと言う。死亡したその日のうちに麓の町ルクラを経由してネパールの首都カトマンズまで運ばれた。
そこからスタッフが日本に搬送し、死亡から9日後の2018年5月30日に北海道の瀬棚町で葬儀が営まれた。若すぎる死、享年35歳であった。

ここまでだと立派な登山家、孤高のクライマーだった印象しか残らないが、この本では栗城さんの裏の顔があからさまに載っていて、いくら「冒険の共有」だの「夢の共有」だのを謳っていても、死ぬに至ったのも「自業自得」としか考えられない。
世界中の登山家から崇められる神聖なエベレストにおいて、流しソーメンをやったり、カラオケをやったりして、わたしから言わせて頂ければ「無礼」であり、舐めくさっているとしか思えない。


また、資金援助をしてくれた社長のアドバイスはおろか他人の忠告や意見を聞かない面が多かった。「頑固」「意固地」といった側面が強い。その後、資金調達のためにマルチ商法で有名な「
アムウェイ」の広告塔にもなっていた。



栗城さんが初めて
世界最高峰エベレスト(標高8848m) (別名チョモランマ、サガルマータ)に挑戦したのは2009年8月末である。
ヒマラヤは春(4~5月)か、秋(9~10月)に登るが一般的となっていて、夏は気温こそ緩むが雨季なので雪の日や雪崩が多い。そして冬は「ジェット・ストリーム」が吹き荒れるため、いずれも登山には不向きなのだという。
そしてもうひとつ、栗城さんがよく言っていた「単独無酸素での七大陸の最高峰登頂」であるが、これも素人には誤解を与えていると言われている。詳しくは後で述べるが、こうして栗城さんにとって初めてのエベレスト挑戦が幕を開けた。

栗城さんにとって代名詞となった「冒険の共有」「夢の共有」とは、インターネットでの生中継である。始めは東京の映像技術会社と検討を重ねて出した結論だと言う。
ちなみに、栗城さんにネットでの生中継を吹き込んだのは、日本テレビの関係者だと載っている。栗城さん自身から出たのでなく、他人からのアイデアが元だった。
その「生中継」という言葉を聞いた栗城さんの脳裏に、スポットライトが当たったのだろう。そこから遠征資金を募る謳い文句に昇華し、栗城さんの代名詞となった。神か悪魔か、どちらの囁きだったのかは、わたしには分からない。

いよいよ始まった栗城史多「エベレスト」劇場。世界最高峰「エベレスト」への挑戦であるが、現在では大金さえ払ってツアーに参加すれば誰でも挑戦ができる。
しかし、挑戦はできるが、登頂できるかは運のよるところが大きい。天候、体調、運など、まさしく「エベレスト」の神に愛でられた者だけが登れると、わたしは思う。
そして前出の「単独」と「無酸素」だが、実はこれも栗城さんは自ら破っている。初回からシェルパを大量に雇い、荷物から食事の材料まで持たせたうえ、裏ではルート工作さえさせている。

酷い場合は、テントの中だから「無酸素」じゃないと言い張って酸素ボンベを使い、7500mからのデス・ゾーンでは遠く後ろからシェルパに酸素ボンベを持たせたり、GPSをシェルパに持たせて身代わりまでさせたことがある。
その様子が視聴者にバレないように自撮りし、ベースキャンプのスタッフと上手く連携を計りながら栗城劇場を生中継で演出する。何も知らない視聴者にとってはまさしく「冒険の共有」「夢の共有」であり、栗城さんはカリスマとして魅力を表して見る者を惹きつけていく。
~しかし、そうは言っても、やはり結果がすべてである。有りえないルートを選んだり、登頂断念を言い訳で逃れる姿勢に視聴者は栗城さんの本性に気付き始め、いよいよ資金調達も苦労するようになってくる。
他人の忠告さえ聞かず、神聖なエベレストを舐めくさっている若者に、山の神が微笑むわけがあるまいに。そうして栗城さんはみずからが開幕させた「エベレスト劇場」を、己の不甲斐なさで追い詰められていく。まさに「自業自得」である。

また、酸素ボンベを持っていなければ「無酸素」には違いないのだが、「単独」については登山界でも議論が分かれているという。他人が工作したルート、他人が張ったロープ、他人が置いて行ったテントを始め、他人から貸してもらった登山道具でさえも含まれてくるからだという。
ちなみに高名なイギリス登山家「アリソン・ハーグリーブズ」氏は、自分で張ったロープしか使わないのはもちろんのこと、他の隊から勧められた飲料でさえ断ったエピソードは有名だ。彼は1995年5月、エベレストに単独無酸素で登頂を果たしている。
また、下山時にヘリを使った「
三浦雄一郎」さんについても議論が起こり、登山家である「
野口健」さんは『自力下山できないのなら、登山とは言えないのではないか』とツイッターで発言して話題になった。

また、タレントの「
イモトアヤコ」さんがヘリで下山したケースについて「
野口健」さんは、『イモトアヤコさんの場合は、現地ガイドが出した条件に沿って、山頂からヘリで下りることが最初から前提になっていました。
しかし、三浦さんの場合は、ベースキャンプまで歩いて下りてくるつもりで登っており、結果的に自力で下山できなくなっただけだと思います』と述べている。
~また、「
三浦雄一郎」さんは過去に心臓手術をしていて、高所にこれ以上いるのは危ないとドクターストップがかかったと述べた。まして高齢だ。エベレストに登頂しただけでも恐るべき超人である。
栗城さんはあくまでも「単独無酸素」で「生中継」まで謳って資金調達したのだから、やはり有言実行しなくてはカッコ悪い。しかも他人に資金を援助してもらいながら、8回も挑戦して1度も登頂できないのであれば、批難されるのも当然であると思う。

そうして始まった初回のエベレスト挑戦は、チベット側からエベレスト北面を登る「メスナー・ルート」。その最大の難所は「
グレート・クーロワール」と呼ばれる、標高7800m付近から山頂近くまで切り立った岩壁に、溝 (クーロワール)が縦方向に刻まれている場所である。
栗城さんは一般的な「ノーマル・ルート」ではなく、あえて難所を通るルートを選択したのだが、標高7700m過ぎてからカメラを回す余裕さえ無くなった。眠れば息が浅くなって充分な酸素を取り込めなくなるゆえ、テントの中では睡魔と闘いながら深呼吸を意識的に繰り返すのみだと言う。
また、水を飲むにも気力が必要な「デス・ゾーン」では身体の水分喪失が激しいため、1日3~4リットルもの水を飲まなければならず、その水はテントの周りの雪を掘って集め、コンロで溶かして作る。その「死の領域」で栗城さんは苦しんだ。

また、ヒマラヤには放置された登山者の遺体が何体もある。滑落や事故、急な体調不良で息を引き取ったのだが、単独だったために下ろす仲間がいなかった者から、仲間はいたが下ろす体力的な余裕がない為に残して行くしかなかった遺体もある。
雪崩や滑落を除けば、遺体となった登山者は最期の瞬間を迎えるまで、登山ルートを登っていた、または下りていたと考えられるゆえに皮肉な事だが、そこを登ってくる後進たちに、正しいルートであることを示す「目印」にもなっていると言う。
栗城さんに話を戻すと、アタック3日目、難所「
グレート・クーロワール」の登り口に辿り着く 300mほど手前、標高7850m地点での敗北となった。一部報道では7950m、栗城さんの公式HPでは7750mと記載されている。

標高8000mに満たない高度では、よほど体調が悪くないかぎり酸素ボンベは使わないと言われる。「無酸素」と呼ぶことさえ かなわない「完敗」であった。
しかし、頂上までの標高差はまだ1000mもあり、この本の著者は『栗城さんにこの差を克服できるのは難しいと思えた』と語っている。
わたしは亡くなった故人に対して、いまさら鞭を打つわけではないが、みずから広めすぎた風呂敷を自分で制御できなくなってきたあたりから、最期が決まっていたかのように思える。

2009年秋の1回目の登頂失敗の翌年、2010年8月末から2回目の挑戦。今度はエベレスト南東稜のノーマル・ルートでの登頂を目指したが、C4のサウスコル(標高7900m)にさえ達することができずに7750mで失敗。
その2年後、2011年8月末から3回目のエベレスト挑戦。またもや同じルートで失敗。栗城さんによると、7800m地点に食料などを埋めておいたのが、カラスに荒らされた為に断念したと発表した。
しかしなぜか、アタック開始のときに予定していたC3でのキャンプ設営および高度順応の宿泊をしておらず、ルートを大きく外れた雪の斜面に荷物をデポしていたと分かる。わたしには計画的な失敗だと思わざるを得ない。

翌2012年8月末から4回目のエベレスト登頂を開始するが、7700mで断念。じつはC2(6400m)地点で「人差し指」が凍傷に罹患していたにも拘らず登山を続行、7500m地点のC4から最終アタックに出たものの強風のため撤退。
その凍傷が悪化、C4からの下山が困難な為に救助を要請。シェルパによりC2まで下ろされた後、ヘリコプターでカトマンズの病院に搬送されたが、この際、凍傷の境目が一直線であったことから自作自演を疑う声が続出した。
著書によると栗城さんは4時間もの間、ベースキャンプと音信普通になっていたと明かされている。また栗城さんは『スマホを使うために指出し手袋をしていた』と言い放ち、これも話題になった。

おそらく、登頂断念の言い訳を作るために ワザと凍傷にかかる演出をしたのだと思う。著書によると、ここに栗城さんの大誤算があり、それほど大事にならないと思っていたのだろうと。
結果、翌2013年11月~2004年1月にかけ、右手の親指以外、両手指9本を第二関節から切断する大怪我となってしまった。なんでも「指が再生する不思議な粉」に凝っていたようだが、
医師に言わせれば真っ黒に変色した時点で、指の細胞から血管まですべて再生不可能になって死んでいると言う。そんな切断した指の状態でも、2014年7月24日には「ブロード・ピーク(世界第12位高峰8047m)」に登頂成功している。

そして翌2015年8月末から5度目のエベレスト登山に挑み、南東稜ノーマル・ルートからの登頂を目指したが、サウスコル付近で断念することになった。その翌2016年5月に「アンナプルナ(標高6300m)」に挑戦したが失敗。
ちなみに上にある「
ネパール大地震」は私の誕生日 (4/25) に起こり、死者8964人の大惨事となった。2016年9月より6度目のエベレスト登山に挑戦するが失敗。
~『秋は風と雪が多く条件が難しいので、次回は雪が少ない厳冬期を考えている』と、『持参したGPSは7500m以上だとズレが大きく、また重量軽減の理由もあり途中から使用を中止した』と語った。
その翌2017年春、中国側からエベレスト北壁に挑むとしていたが、遠征後半にネパール側に移動するなどルートを二転三転し、最終的に5月29日にネパール側ノーマル・ルートの6800m付近まで登った直後に断念した。

さすがに毎年毎年、失敗の連続では視聴者も飽きる。すでに資金援助も困難になってきたようだが、わたしが察するに、栗城さんはエベレストに単独で登る技術も、体力も無かったと思われる。
いつまでも「エベレスト劇場」で遠征資金を調達するにしても、毎回見ていた視聴者を裏切るような行動をはじめ、他人の忠告さえ聞かないワガママ、意固地、頑固では応援していた人達も愛想が尽きるのは当然である。
「冒険の共有」「夢の共有」と謳って資金を援助してもらっても、毎回「失敗の共有」では夢も目標もあったものではない。しかし、その栗城さんも「アピール力」に関しては才能があり、人柄と上手く重なって人々を魅了していたのは事実だ。



このように、まるで「成功セミナー」の講師のように語る語る。視聴者にとってみたら、まるでカリスマに見えたであろうが、失敗が度重なると支援者も離れて行った。
登山家より、圧倒的に起業家のほうが向いていたように思える。講演会やスポンサー企業から数千万も毎回集められるなら、登頂して終わるより、苦し紛れの言い訳をして登頂を失敗させれば、支援者がいる限り、お金は集められる。
たぶん、お金の欲に憑りつかれていたからこそ、類は友を呼び、「アムウェイ」というマルチ商法の輩たちとの付き合いが深くなって行ったのだろう。また、わたしが察するに、指の大部分を失った時点で「エベレストでの死」が頭によぎっていたのだと思う。

また、この本には詳しく明かされているが、栗城さんは途中から「スピリチュアル」「占い」に凝り出し、長く付き合って婚約した彼女とさえ婚約破棄して別れている。
信じていた占い師から「その恋人と付き合っていたら、あんた死ぬよ」とまで言われたらしい。そして心酔は登山にまで影響を及ぼし、「登頂するのは占い師に言われた日」でないと聞かなかったらしい。もはや異常である。
そして恐山「
最後のイタコと呼ばれる松田広子」さんにも会いに行っていた様子も明かされている。著者が松田さんに話を聞いた際、降ろした母親に対して未練があったようだと語っている。「
最後のイタコ~松田広子のホームページ - itako-matsuda」

そして栗城史多、最後の「エベレスト劇場」となった8回目の挑戦は、2018年5月に行われた。この時、信頼していた仲間から『絶対にノーマル・ルートで行け』と忠告されていて、野口健さんからは『変な気、起こすなよ』とまで言われている。
そしてなんと栗城さんは、他のエベレスト登山者が絶対に避ける、もっとも困難な南西壁ルートを選択、察するに「エベレストでの死に場所」を選んだのだと思う。最期はもはや「パフォーマンス」ではなく、憧れの聖地での死を始めから考えていたのだろう。
結果、登山中に体調を崩した為に標高7400m付近より下山したが、途中で音信不通の行方不明になった。C2にいたシェルパがルートを登って捜索したところ、栗城さんの冷たくなった遺体を発見した。自ら命を断ったかは誰にも分からない。

ここに挙げた以外にも著書にはたくさんの出来事が載っていて、ある時はGPSをシェルパに持たせ、有りえないスピードで登ったことまで暴露されている。山とは「神坐す場所」であるから、どんな山だろうと敬意を持って登らなければ駄目だ。
ましてエベレストは世界最高峰、世界一の山である。日本で言えば「富士山」だ。無礼を働くなど、もっての他である。ちっぽけな人間の命なんぞ怒った神々からすれば、蟻を踏みつぶすように簡単かつ瞬時に潰せるのだから。
最後に栗城さんの為に、わたしが作ったラップを贈ろう。2ちゃんねる (現5ちゃんねる) にもコメントしたのだが、これは私が作ったラップである。(笑)
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~おっと!栗城さんの悪口はそこまでだ!
下界のクズカス眼中ナシ
山への情熱見習いたい
家族やファンの夢背負い
ザックひとつでエベレスト
まだまだ行くぜ登山道(イエッ)
あぁー後姿が大きいぜ
みてて下さいオレもやる
ロック魂胸に秘め(イエッ)
じぶんのすべてを投げうって
ごうかい大胆その生き様
うまれた時から星になる運命
じゆうに生きて星になる運命
とくと魅せられその煌めき
くどいようだか彼英雄(イエッ)
今ごろ星になってるさ
夜空に煌めくダイヤモンド
はかなく生きてそれ天命
めだつ生き様それ豪傑(イエッ)
しぬのは永遠それ始まり
うんめいさだめそれ宿命
まこと神に愛でられて
びーこん点滅それ星の煌めき
いまごろ神に褒められて
るびーみたいに煌めいて
がんばった生き様愛でられて
うんめい宿命それさだめ
まるで神様それ天命(イエッ)
いってオレらを見守って
~栗城神拳究極奥義『無呼吸下山』
※ヒント「縦読み」 あくまでも冗談です。
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